生涯
向井去来は慶安4年(1651年)、肥前国(現在の長崎市興善町)に儒医向井元升の二男として生まれた。本名は兼時、幼名は慶千代、字は元淵、通称は喜平次・平次郎である。別号として義焉子(ぎえんし)、落柿舎がある。
父の向井元升は本草学者・儒医として名声を得た医学者であり、兄も儒医であった。去来は8歳で上京して武芸を修め、儒医の兄の縁で堂上家に仕えた。一時は福岡の叔父のもとに身を寄せて武芸を学び、その功あって25歳の時に福岡藩に招請されたが、なぜか固辞し、以後武芸を捨てて京都で浪人生活を送った。24、5歳の頃に堂上家を辞してからは他家に仕官しなかった。
貞享元年(1684年)、上洛中の江戸の俳人宝井其角(きかく)と出会い、蕉門に入門した。貞享2年から3年(1685年から1686年)頃、嵯峨野に豪商の別邸(1000坪)を買い取り、後に小さく改築して草庵とした。貞享3年(1687年)には江戸に下り、初めて芭蕉と対面して親交を結んだ。この頃から文通により松尾芭蕉の教えを受けるようになった。
元禄2年(1689年)の秋頃から、庭の柿40本が一夜にして落ち尽くしたエピソードにちなんで、この庵を「落柿舎」と称するようになった。芭蕉は落柿舎を3度訪れ、元禄4年(1691年)には4月18日から5月4日まで長期滞在し、「嵯峨日記」を執筆した。
去来は一生正式な結婚をせず、可南という内縁の女性と暮らした。宝永元年(1704年)9月10日、聖護院近くの寓居にて病没した。享年54歳であった。
俳句歴
向井去来は貞享初年から松尾芭蕉の教えを受け、元禄4年(1691年)には野沢凡兆と共に、芭蕉の指導のもと蕉風俳諧の代表的な撰集『猿蓑(さるみの)』を共編した。『猿蓑』は「俳諧の古今集」と称され、蕉風俳諧の白眉とされる。この編集作業の間、去来は芭蕉から俳諧の真髄を学ぶ機会に恵まれた。
元禄12年(1699年)3月には俳諧論書『旅寝論(たびねろん)』を書き終えた。元禄15年(1702年)からは、芭蕉の俳論をまとめた『去来抄(きょらいしょう)』の草稿に着手し、死去の直前まで執筆を続けた。『去来抄』には松尾芭蕉からの伝聞、蕉門での論議、俳諧の心構えなどがまとめられており、芭蕉研究の最高の俳論書とされる。この書は1775年(安永4年)に板行されて世に出た。
去来は芭蕉の死後も、師の教えを頑なに守り、其角や許六と論争した書として「贈其角先生書」「答許子問難弁」などを著した。また、著書として『伊勢紀行』、句集として『去来発句集』がある。
去来の篤実な性格は芭蕉の絶大な信頼を得て、芭蕉は戯れに彼を「西三十三ケ国の俳諧奉行」と呼んだという。これは去来が西日本の蕉門を結集させた実績と、温厚篤実で同門の人々に尊敬され、まとめる技量を持っていたことによる評価である。去来は蕉門十哲の一人として、蕉風俳諧の発展に大きく貢献した。
その他の特記事項
去来の別邸である落柿舎は、現在の京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町に保存されている。現在の庵は明和7年(1770年)に去来の親族で俳人の井上重厚が弘源寺跡に再興したもので、当初の庵の正確な場所は不明である。
落柿舎の名の由来となったエピソードは、去来の『落柿舎記』に記されている。元禄2年(1689年)頃、去来が在庵中に都から柿を扱う老商人が訪ねてきて、庭の柿を一貫文で売る約束をして代金を受け取った。しかしその夜、嵐が吹き、一晩にして柿がすべて落ちてしまった。翌朝来た老商人に去来は代金を全額返し、この出来事から自ら「落柿舎の去来」と称したという。
去来の墓は落柿舎の裏の弘源寺の墓苑内にあり、遺髪を埋めたといわれる。高浜虚子は「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣でけり」と詠んでいる。また、真如堂には一門と一緒にお墓があり、二尊院の東南墓地には招魂碑が立てられている。