生涯
高浜虚子(たかはま きょし)は明治7年(1874年)2月22日、愛媛県温泉郡長町新町(現在の松山市湊町)に旧松山藩士・池内政忠の五男として生まれた。本名は清(たかはま きよし)、旧姓は池内である。9歳の時に祖母の実家の高浜家を継いだ。父は松山藩の剣術監をつとめる武芸の達人であったが能楽もよくし、旧藩時代に地謡方を務めた。母は虚子幼少の頃から古典文学などを語り聞かせ、虚子の抒情性に大きな影響を与えたとされる。
明治21年(1888年)に伊予尋常中学校(現在の愛媛県立松山東高校)に入学し、1歳上の河東碧梧桐と同級になった。碧梧桐を介して正岡子規に兄事し俳句を教わり、明治24年(1891年)に子規より虚子の号を授かった。虚子という号は本名の清に由来している。明治26年(1893年)、碧梧桐と共に京都の第三高等学校に進学した。明治27年(1894年)には仙台の第二高等学校に転入するも中退し、上京して東京市下谷区根岸にあった子規庵に転がり込んだ。明治28年(1895年)12月、短命を悟った子規より後継者となることを要請されるも拒否した道灌山事件が起きた。
明治30年(1897年)、元は碧梧桐の婚約者であった大畠いとと結婚した。明治31年(1898年)には柳原極堂が松山で創刊した俳誌『ホトトギス』を子規の協力を得て引き継ぎ東京に移転し、俳句だけでなく和歌や散文なども加えて俳句文芸誌として再出発させた。明治35年(1902年)に子規が没すると俳句の創作を辞め、その後は小説の創作に没頭した。
明治43年(1910年)に一家をあげて神奈川県鎌倉市に移住し、以来亡くなるまでの50年間を同地で過ごした。大正2年(1913年)、碧梧桐の新傾向俳句に対抗するため俳壇に復帰し、「春風や闘志抱きて丘に立つ」を詠んだ。昭和12年(1937年)に芸術院会員となり、昭和15年(1940年)には日本俳句作家協会会長を務めた。昭和19年(1944年)9月4日、太平洋戦争の戦火を避けて長野県小諸市に疎開し、昭和22年(1947年)10月までの足掛け4年間を小諸で暮らした。昭和29年(1954年)に文化勲章を受章し、昭和34年(1959年)4月8日、脳溢血のため鎌倉市由比ヶ浜の自宅で永眠した。85歳没。
俳句歴
虚子は子規没後の俳壇復帰において、碧梧桐の五七五調に囚われない新傾向俳句に対し、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えた。季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張して守旧派として碧梧桐と激しく対立した。昭和2年(1927年)には、俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げた。花鳥諷詠は虚子の造語であり、春夏秋冬の季節のうつろいや自然界のさまざまな事象を素直に見つめ、敬い、季語を大切にするという俳句創作についての理念である。客観写生とは、自分の主観で物事を表現するよりも、客観的な描写を積み重ねることを通して作者の心情を浮き彫りにすることとされる。
虚子は俳壇に復帰したのち、『ホトトギス』は大きく勢力を伸ばし、大正・昭和期は俳壇即『ホトトギス』であったといえる。虚子は俳壇に君臨する存在であった。生涯に20万句を超える俳句を詠んだとされるが、現在活字として確認出来る句数は約2万2千句である。代表句に「遠山に日の当たりたる枯野かな」「春風や闘志抱きて丘に立つ」「去年今年貫く棒の如きもの」「白牡丹といふといへども紅ほのか」「流れ行く大根の葉の早さかな」などがある。
『ホトトギス』は明治30年(1897年)1月に柳原極堂によって松山で創刊され、翌31年秋に東京に移されて虚子に引き継がれた。以来100年を越えてなおその歴史を刻み続けており、虚子が確立した俳句理念が連綿と流れている。
その他の特記事項
虚子は後進の育成にも力を入れ、高野素十、水原秋桜子らを育てた。特に女性俳句の育成に尽力し、まだ俳句を詠む女性が少なかった1910年代から女性のための句会を開催し、『ホトトギス』に女性を対象とした投稿欄を設けるなど、女性俳人の育成に力を入れた。今日の女流俳人隆盛の源流が虚子に遡ることを考えると、その先進性は驚くばかりである。
虚子は『ホトトギス』の編集において、読者から投稿された俳句を選句することを重視し、後に「選は創作なり」と述べている。数多くの句の中から何を選び、どこに着目し、どのように評価するのかは選ぶ側の審美眼にかかるのであり、立派な創作行為なのだと虚子は言う。
昭和9年(1934年)には初めて本格的な『新歳時記』を編み、その序文で季題に対する明快な見解を示した。ここにおいて現代の日本人の根本的な季節感が完成したといえる。この歳時記は虚子の永遠の名作の一書である。
虚子は俳句のみならず、小説や写生文など明治・大正・昭和にわたり驚異的な数の文学作品を残した。また能楽への傾倒は父や兄の影響によるところ大であり、演能は勿論、能の脚本の執筆などその生涯を通じ深い関わりを持った。昭和12年(1937年)2月、碧梧桐の死に際しては「たとふれば独楽のはぢける如くなり」という弔句を詠み、二人の個性の弾きあうさまを喧嘩独楽に託して友情を懐かしんだ。平成12年(2000年)3月には小諸市に小諸高濱虚子記念館が、同年4月には兵庫県芦屋市に虚子記念文学館が開館した。