生涯
大島蓼太は享保3年(1718年)、信濃国伊那郡本郷村(現在の長野県上伊那郡飯島町)に生まれた。本姓は吉川、諱は陽喬、通称は平助である。雅号は雪中庵、里席、宜来、老鳥、豊来、空摩など多数ある。
幼時に一家で江戸に出て、藤屋平助と称し、幕府の御用縫物師を務めた。元文5年(1740年)、雪中庵二世桜井吏登(りとう)の門人となり俳諧を学んだ。
松尾芭蕉追慕の念から、寛保2年(1742年)、『奥の細道』を吟行するため奥羽行脚に旅立った。その翌年、郷里の飯島に立ち寄り、与田切川の河畔に現地の門人らと「雪塚」を建立した。
延享4年(1747年)、雪中庵を継承し三世となった。芭蕉への回帰を唱えてその研究と顕彰に努め、3000人余の門人を有した。また江戸座宗匠の旧態を批判し、一大勢力を築いた。東西に旅行すること30度に及び、編著は200部を数えた。俳諧史上稀有の名声を得た。
白隠和尚に参禅し、宝暦9年(1759年)「隻手音声」の公案の印可を受けた。白隠に俳諧を問われた時、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」を示したという。白隠に揮毫を頼むと「古井戸や~」と書き始めたため慌てて指摘すると、白隠は「古池でも古井戸でも、水の音には違いはない」と答えたという逸話が残る。
明和8年(1771年)には深川(深川要津寺)に芭蕉庵を再興し、芭蕉翁七十回忌には芭蕉像を納めた俤塚をつくった。天明7年9月7日(1787年10月17日)に没した。享年70。没後は深川の要津寺に葬られ、死後はその俤塚の脇に葬られた。
俳句歴
蓼太は雪中庵二世桜井吏登に師事し、延享4年(1747年)に雪中庵三世を継承した。芭蕉への復帰を唱え、芭蕉の資料紹介や注釈にも尽力した。『続五色墨』(1751年)で基礎を固め、論書『雪おろし』(1751年)において江戸座宗匠を批判し、江戸俳壇に確固たる地位を占めた。江戸座の宗匠たちに対抗して「雪おろし」を著し、彼らの「江戸二十歌仙」を批評して論争をまきおこし、しだいに江戸俳壇に地位を築いた。
蓼太は芭蕉ゆかりの地を吟行し、多くの俳書を編集した。門人は3000人を超え、東西に旅行すること30度、編著200部という活動を展開した。作風は平明であると評された。
蓼太の代表句に「世の中は三日見ぬ間に桜かな」がある。この句は、いつの間にか桜が咲いていたということを詠んだものであるが、「三日見ぬ間の」と誤伝され流布し、世の中を三日見ない間に散ってしまう桜に例える意となった。
主な著作には『雪おろし』『芭蕉句解』『蓼太句集』『ほうぐ袋』『七柏集』『春の月』などがある。
その他の特記事項
蓼太は与謝蕪村、加舎白雄などと共に中興五傑(天明の中興五傑)の一人に数えられる。芭蕉への回帰を唱え、その研究と顕彰に努めたことで知られる。
蓼太は俳諧史上稀有の名声を得たが、正岡子規が『獺祭書屋俳話』(1895年)に「俗気紛々たる句多し」と評して以来、評価は下がった。子規の批判以降、蓼太の作風は平明であるが俗気があるとされるようになった。
蓼太は芭蕉庵の再興や俤塚の建立など、芭蕉顕彰に尽力した。深川要津寺に芭蕉庵を再興し、芭蕉翁七十回忌には芭蕉像を納めた俤塚をつくり、自身も没後その脇に葬られた。
蓼太は白隠和尚に参禅し、禅の修行も行った。白隠との交流を通じて、俳諧と禅の精神的なつながりを深めた。