生涯
夏目漱石は1867年2月9日、江戸の牛込馬場下横町に名主の末子として生まれた。本名は夏目金之助である。幼少期は里子や養子に出されるなど複雑な家庭環境で育った。1889年、帝国大学予備門(のちの第一高等学校)で正岡子規と出会い、文学的・人間的に多大な影響を受けることとなる。子規が書いた漢詩文集『七草集』を漱石が批評したことから交流が深まり、「漱石」という号も子規の数ある俳号の一つを譲り受けたものである。
1893年に帝国大学英文科を卒業後、高等師範学校の英語教師となったが、神経衰弱に悩まされた。1895年、松山の愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)に英語教師として赴任し、愚陀仏庵に下宿した。この地で正岡子規と52日間同居し、俳句結社「松風会」に参加して句会を開いた。俳号の「愚陀仏」はこの下宿先に由来する。
1896年には熊本の第五高等学校教授に赴任し、貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚した。熊本時代の1898年、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主として俳句結社「紫溟吟社」を興し、漱石は俳句の指導を行った。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。
1900年にイギリスへ留学したが、英文学研究への違和感から再び神経衰弱に陥った。1902年に帰国後は第一高等学校と東京帝国大学の講師となり、小泉八雲の後任として英文学を講じた。1904年、高浜虚子の勧めで神経衰弱の治療の一環として『吾輩は猫である』を執筆し、作家としての道を歩み始めた。1907年には朝日新聞社に入社し、職業作家となった。晩年は胃潰瘍や糖尿病に苦しみながら執筆を続け、1916年12月9日、『明暗』執筆途中に腹腔内出血により50歳で死去した。
俳句歴
漱石の俳句人生は正岡子規との出会いから始まる。1889年、子規の漢詩文集『七草集』を批評した際に初めて「漱石」の号を用いた。しかし本格的に俳句作りに取り組み始めたのは、1895年8月27日、松山赴任中の愚陀仏庵に正岡子規が居候してからである。当時28歳だった漱石は、本来は読書に専念したかったが、子規が仲間を集めて句会を開いていたため、その輪に加わることとなった。
松山時代、漱石は子規とともに俳句に精進し、数々の作品を残した。1896年に松山を去る際には別れの句を子規に送っている。その後も作品が溜まると東京の子規に送り、子規がその中から良い作品を選んで新聞の俳壇に掲載したことから、俳句界で名を知られる存在となっていった。
熊本時代の1898年には、寺田寅彦らと俳句結社「紫溟吟社」を興して俳壇でも活躍し、名声を上げた。子規は漱石の才能を「ふつう、英書を読むものは漢書が読めず、漢書が読めるものは英書が読めないものだが、両方できるきみは、千万中のひとりといっていい」と絶賛していた。
1902年、イギリス留学中に高浜虚子から子規の死の知らせを受けた漱石は追悼の句を残している。子規との交流は漱石がイギリス留学中の1902年に子規が没するまで続き、漱石の文学に大きな影響を与えた。
小説家として活躍するようになってからも俳句を詠み続け、生涯で2527句を作った。『漱石俳句集』は1917年11月に岩波書店から出版されている。漱石の俳句は正岡子規が「奇想天外の句多し」と評したように、独特のユーモアに溢れた滑稽な句風が特徴である。どこか江戸っ子らしいスピード感と洒脱さを感じさせる句もあれば、風雅の趣のある句も残している。
その他の特記事項
漱石の俳句には、自身の生活や体験が色濃く反映されている。実際に飼っていた猫を詠んだ句や、長女筆子の誕生時に詠んだ句など、日常を題材とした作品が多い。また、胃弱などの病気を抱えていたことから病気を題材にした句も残している。
漱石の句には趣味の落語鑑賞が影響しているとされ、小説同様に洒落をきかせた作品が特徴的である。芥川龍之介が「夏目さんは私の知っている限りの誰よりも江戸っ子でした」と語ったように、義理人情に厚く、世話好きの一面を持っていた。一方で、非常にまじめで潔癖症であり、かんしゃく持ちでもあったという。
漱石は小説家としての名声が高まった後も俳句を続け、1905年に発表した『吾輩は猫である』は、高浜虚子が神経衰弱に陥っていた漱石の気晴らしになればと、俳句雑誌『ホトトギス』に掲載する文章を書くよう勧めたことがきっかけで執筆された作品である。この作品により『ホトトギス』の発行部数は大幅に増加し、漱石は小説家として不動の地位を築いた。しかし、その後も俳句を詠み続け、文学者としての活動の重要な一部として生涯俳句と関わり続けた。