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俳人の説明

管理人による説明

昭和から平成・令和にかけて活躍した俳人。19歳から高浜虚子に師事し、花鳥諷詠と客観写生を生涯の理念として実践した。

生涯

深見けん二は高玉鉱山(現・福島県郡山市)に生まれた。父の転勤により東京に移り、府立第五中学校を経て東京帝国大学工学部冶金科を卒業した。卒業後は東京帝国大学冶金科研究室に勤務した後、日本鉱業に入社し、その後日興エンジニアリングに勤務した。

家庭生活においては、成城に疎開したことが縁となり龍子夫人と結婚した。二人の子息に恵まれ、晩年は夫婦ともに介護施設に入居し、2021年には白寿(99歳)を迎えた。句集『菫濃く』の時期には毎日周辺を歩いて20句以上を作句するなど、高齢になっても精力的な創作活動を続けた。家族によれば、家庭では俳句制作に専念する生活であったという。生涯を通じて俳句一筋の人生を歩み、その姿勢は「少年のまま」と評された純粋さを保ち続けた。

俳句歴

1941年、高校時代の19歳の時に母の友人の紹介により高浜虚子に師事し、虚子指導の「大崎会」に参加したことが俳句人生の始まりとなった。当時70歳であった虚子から直接指導を受ける機会に恵まれた。大学入学後は東京帝国大学の「草樹会」にも参加し、山口青邨や富安風生らと交流した。20歳頃には深川正一郎の指導も受けた。

戦後の1947年には上野泰を中心とした「ホトトギス新人会」を結成し、11人のメンバーで活動を開始した。1952年からは虚子邸で開かれた「研究座談会」に参加し、虚子から花鳥諷詠と客観写生の本質について直接学んだ。同年より山口青邨にも師事し、1953年に青邨主宰の「夏草」同人となり、1959年には「ホトトギス」同人となった。

1977年、55歳の時に古舘曹人らが主宰する「木曜会」に入会し、徹底した連衆句会の洗礼を受けた。この句会では互選後に合評を行う方式を採用し、句作の技術を磨いた。1989年には「珊」創刊同人となり、1991年には古舘曹人の勧めもあって「花鳥来」を創刊し主宰となった。「花鳥来」では虚子の句会論を実践し、少人数での連衆句会を重視した運営を行った。

1992年に句集『花鳥来』で第31回俳人協会賞を受賞、2006年に句集『日月』で第21回詩歌文学館賞俳句部門を受賞、2014年には句集『菫濃く』で第48回蛇笏賞および第13回山本健吉賞を受賞するなど、高い評価を得た。俳人協会名誉会員、日本文藝家協会会員を務めた。

その他の特記事項

深見けん二の俳句観の特徴は、虚子から直接学んだ花鳥諷詠と客観写生を生涯貫いたことにある。特に兼題詠を重視し、季題から発想する訓練を続けた。また句会を俳句制作の中心に据え、嘱目吟(現場での写生)、兼題詠、句会での切磋琢磨の三つを自らの作句法の柱とした。虚子の「俳句会のこと」という文章を座右の書とし、20人前後の少人数での互選句会を理想とした。

「木曜会」や「花鳥来」では作品への合評を重視し、信頼できる仲間との連衆句会を通じて作品を磨き続けた。ただし最終的な句集の編纂は自己の責任において行うという姿勢を保った。虚子の「研究座談会」での教えを繰り返し読み返し、客観写生の技術をしっかり身につけた上で自然と主観が現れる境地を目指した。花鳥諷詠を単なる技法ではなく人生の生き方として捉え、あるがままを受け入れて詠む姿勢を理想とした。

claude sonnet 4.5 による自動生成です。

参考にさせていただいたWebサイト様
深見けん二先生の白寿をお祝いする会2021.5.10 -- ふらんす堂 深見けん二スペシャルインタビュー2014.10.16 -- ふらんす堂 深見けん二 -- Wikipedia

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名謙二
生没1922 〜 2021

現在、24句の俳句が登録されています。

    • 春の波 はるのなみ
      季節: 春(三春) 分類: 地理(水辺)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 春
      p.51
    • 夏帽子 なつぼうし
      季節: 夏(三夏) 分類: 人事(衣服)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 夏
      p.67
    • 秋祭 あきまつり
      季節: 秋(三秋) 分類: 宗教(神道)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 秋
      p.103