生涯
松尾芭蕉は寛永21年(1644年)、伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)において、松尾与左衛門の次男として誕生した。幼名は金作、通称は甚七郎または忠右衛門である。松尾家は平氏の末流を名乗る土豪の一族であったが、芭蕉の父の代には苗字帯刀こそ許されていたものの、身分は武士ではなく無足人(農民)であった。父は手習師匠などを生業としていたとされる。
明暦2年(1656年)、芭蕉が13歳のとき父が死去し、兄の半左衛門が家督を継いだ。その後、芭蕉は伊賀国上野の侍大将・藤堂良忠に仕えることとなった。この良忠が北村季吟に師事する俳人であったことから、芭蕉も俳諧の道に入ることとなる。しかし寛文6年(1666年)に良忠が23歳の若さで死去すると芭蕉は仕官を退いた。
寛文12年(1672年)、29歳の芭蕉は処女句集『貝おほひ』を上野天神宮に奉納した後、江戸へ向かった。江戸では最初の数年間は経済的に困窮し、水道工事の事務仕事などで生計を立てていたが、延宝6年(1678年)頃には宗匠となり職業的な俳諧師として歩み始めた。延宝8年(1680年)、37歳のとき深川に居を移し、門人から贈られた芭蕉の株にちなんで庵を「芭蕉庵」と名付けた。
貞享元年(1684年)以降、芭蕉は旅を重ねる生活に入る。野ざらし紀行、笈の小文、更科紀行などの旅を経て、元禄2年(1689年)3月27日、弟子の河合曾良を伴い、おくのほそ道の旅に出発した。この旅は約5ヶ月600里(約2,400km)に及び、東北から北陸を経て大垣に至るものであった。
元禄7年(1694年)5月、芭蕉は最後の旅として伊賀上野へ向かい、その後大坂へ赴いた。大坂では門人間の不和を仲裁するために訪れたが、体調を崩し、10月12日申の刻(午後4時頃)、花屋仁左衛門の貸座敷で息を引き取った。享年51(満50歳)。遺言により、遺骸は近江の義仲寺に葬られた。
俳句歴
芭蕉が俳諧を始めたのは、主人の藤堂良忠とともに京都の北村季吟に師事したことによる。寛文2年(1662年)の年末に詠んだ「春や来し年や行けん小晦日」が、作成年次の判明している中では最も古い句である。寛文4年(1664年)には『佐夜中山集』に「松尾宗房」の名で2句が初入集し、この時期の作風は貞門派の典型であった。
江戸に下った後、延宝3年(1675年)には西山宗因を迎えた興行に参加し、初めて「桃青」の号を用いた。この時期、芭蕉は談林派俳諧の影響を強く受けた。延宝6年(1678年)頃に宗匠となり職業的俳諧師として活動を本格化させた。
天和年間以降、芭蕉の作風は変化を見せ始める。深川移居後は談林諧謔から離れ、静寂と孤独を通じた新たな境地を模索した。天和3年(1683年)には初めて「芭蕉」の号を用いている。貞享3年(1686年)春に詠まれた「古池や蛙飛びこむ水の音」は、従来の常識を覆す画期的な句として芭蕉風(蕉風)俳諧を象徴する作品となった。
名古屋で詠んだ歌仙を纏めた『冬の日』は「芭蕉七部集」の第一とされ、「芭蕉開眼の書」とも呼ばれる。貞享年間には、「--哉」と「--や/--(体言止め)」という二つの句型を用いながら多彩な表現を盛り込んだ作品が主流となった。また、「俗」を取り入れつつ詩美を追求する独自の方法論を確立していった。
元禄3年(1690年)頃からは「かるみ」の境地に到達したとされる。『猿蓑』に収められた作品群は、身近な日常の題材を素直かつ平明に表現する「かるみ」の実践例である。芭蕉は俳諧に対する論評を著さなかったが、門人の土芳による『三冊子』や去来による『去来抄』を通じて、その俳論を知ることができる。
芭蕉は「風雅の誠」という純粋な詩精神を重視し、対象固有の性情を捉える「本情・本性」の概念を示した。「松の事は松に習へ」という言葉は、私的観念を捨てて対象の本質に入り込む「物我一如」「主客合一」の重要性を説いている。
その他の特記事項
芭蕉の門人には蕉門十哲と呼ばれる宝井其角、服部嵐雪、森川許六、向井去来、各務支考、内藤丈草、杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人らがおり、各地に蕉門派が形成された。特に近江蕉門は、芭蕉が「旧里」と呼ぶほど好んだ地域から輩出され、門人36俳仙のうち12名を占めている。
芭蕉の忌日である10月12日は、桃青忌・時雨忌・翁忌などと呼ばれる。時雨は旧暦十月の異称であり、芭蕉が好んで詠んだ句材でもあった。芭蕉の死後、神格化が進み、寛政3年(1791年)には「桃青霊神」の神号が、天保14年(1843年)には「花本大明神」の神号が授けられた。
芭蕉が忍者であったとする説が存在するが、三重大学准教授の吉丸雄哉による検証では、芭蕉の身分は父の代で農民となっており伊賀者ではなく、おくのほそ道の行程分析からも大変な健脚であったとは言えず、忍者説は成立しないとされている。この説は昭和41年(1966年)の松本清張と樋口清之による共著で初めて現れ、その後のフィクション作品により広まったものである。