生涯
松瀬青々は1869(明治2)年4月4日、大阪市東区大川町(現在の中央区北浜四丁目)に長男として生まれた。本名は弥三郎である。家業は薪炭商を営んでいた。北浜高等小学校卒業の頃より小原竹香に詩文を、福田直之進に漢学を学び、20歳を過ぎてからは池田蘆州に漢学を学んだ。また蓼生園中村良顯に和歌を学び、邦武と号した。
1895年、第一銀行大阪支店に入行し、同僚と句作を試みた。1897年、松山発行の「ほととぎす」第4号にて高浜虚子の選に入選し、初号は無心であった。また新聞「日本」や青年雑誌「文庫」にも孤雲の号で投句し、後者の選で虚子は「投句六十、悉く之を採るも可」と賞賛した。1898年に青々に改号し、同年結婚した。正岡子規は「明治三十一年の俳句界」で「大阪に青々あり」と賞賛し、その句の特色を「豪宕にして高華、善く典故を用ゐて勃窣に堕ちず」と見抜いた。
1899年4月、青々は初めて子規に会った。同年7月に銀行を退社し、9月に上京して「ホトトギス」の編集係に就いた。しかし1900年5月には退社して大阪に戻り、わずか8ヶ月の東京滞在であった。この時31歳で、妻と一女があった。虚子や碧梧桐より4、5歳年長で、実社会での経験も豊富な青々にとって、若い在京俳人たちとは馴染めなかったようである。帰阪後は大阪朝日新聞社に入社し、会計部に勤めながら俳句欄選者を担当した。1912年には退社して編集部嘱託となった。1937年1月9日、狭心症により死去した。行年69歳であった。
俳句歴
青々は子規に出会う以前に、すでに与謝蕪村の作風を全体として自家薬籠中のものにしていた。子規が写生の観点から蕪村の視覚的・絵画的な句を重視したのに対し、青々は蕪村の浪漫的情趣や王朝趣味などの主観的傾向をも含めて受容していた点で、子規とは句風が対照的であった。
1901年、「寶船」を創刊・主宰した。1904年には句集『妻木冬之部』を刊行したが、これは存命中に刊行されたものとしては最古の個人句集である。以後1906年にかけて『妻木新年及春之部』『同夏之部』『同秋之部』を順次刊行した。1915年11月には「寶船」を改題して「倦鳥」とし、以後誌名の変更を経ながらも終生この俳誌を主宰し、大阪俳壇の基礎を築いた。
青々は古季語や難季語を意欲的に詠み、漢籍から「春泥」「薄暑」といった季語を使用して定着させた。また「字がらみ作句法」と称し、漢詩や古典の気に入った詩句に思いを寄せることで句を作った。「視覚を触覚的に推し進むべし」という言葉を残しており、代表句「日盛りに蝶のふれ合ふ音すなり」は、聴覚的というより触覚的な世界を表現した句として知られる。
初期には蕪村に傾倒して天明調の句を詠んだが、後年には松尾芭蕉に傾倒しその研究に努めた。また独自の俳画を切り開き、1930年には大阪三越百貨店で「青々俳画展」を開催している。晩年には「倦鳥」で古屋秀雄、右城暮石、細見綾子といった俊英を育てた。
その他の特記事項
青々は在家ではあったが、仏教の教典研究に熱心で、法隆寺などとの繋がりが深かった。「寶船」明治40年8月号には「俳諧夏書」八十四句を発表し、般若心経の俳句化を試みている。死去の際には多くの寺院の僧が弔問に訪れ、法隆寺管長佐伯定胤もその一人であった。
没後の1938年9月には、生前に青々が「倦鳥」に句集出版を期して載せた自選句をもとに句集『鳥の巣』上下巻が出版された。また1910年から1936年12月まで「倦鳥」に「近作」として掲載された句をもとに、1940年にかけて句集『松笛』が4巻本で出版された。『松笛』は1万近い句を収める大著である。
青々はホトトギスに対抗し、関西に「主観俳句」の一大勢力を築いた俳人として、明治・大正・昭和の三代にまたがって活躍した。その生き方は「徹底的に己が生の栄えを極め、味わい尽そうとする上方人特有のこってりとした生き方」と評され、上方文化人そのものであった。