萱野重実 (かやの しげさね)
俳人の説明
管理人による説明
生涯
萱野重実は、延宝3年(1675)、父・重利の三男として誕生した。通称三平。俳号は涓泉。旗本大島義也の家老萱野重利の三男。兄に萱野重通・萱野七之助(13歳で夭折)がいる。姉も二人、妹も一人いる。幼名卯平次。
萱野家は源氏の流れをくむ一族で、鎌倉時代から摂津萱野郷を領した土豪の家だった。この地は西国街道に面しており、この街道に面して立派な武家屋敷を構えていたという。戦国時代、萱野家は織田信長の配下である伊丹城主・荒木村重に所属していた。ところが、村重は信長に対して謀反を起こして敗北。萱野家も領地を没収されてしまう。時が流れて江戸時代になると、縁あって美濃出身の旗本・大嶋家に仕えることとなり、萱野家旧領付近の大嶋家の所領となっていた土地の代官を勤めることとなった。
13歳の時に父の主君・大島出羽守の推挙で浅野内匠頭に中小姓として仕えることとなった。中小姓は、主君の側用人のような役職だったらしい。元禄13年の赤穂藩の分限帳によると、重実は多儀清具(中小姓頭)支配下の中小姓で、「金12両2分3人扶持」とある。
元禄14年(1701)3月14日、主君の浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んだ。浅野家の江戸上屋敷で事件を知った重実は、早水藤左衛門と共に主君の刃傷事件を赤穂に知らせる第一の使者となって、早駕籠に乗った。乗り心地の良さなどは皆無であり、乗り手は振り落とされないように必死につかまっていなければならなかった。実際、彼と早水は途中で数回、駕籠から振り落とされてしまったらしい。彼らは不眠不休で155里(約600km)の道のりを突っ走り、驚異的な早さで3月19日未明に赤穂に到着。疲労困憊、息も絶え絶えの状態であったが、井戸水でわずかに一心地ついただけで、すぐに国家老(筆頭家老)・大石内蔵助良雄にこの凶報を伝えたのであった。
早駕籠で赤穂へ急ぐ途中、西国街道沿いの実家の前を通ると、そこで母の葬儀が行われているのを目にした。同行の早水藤左衛門に「一目母御に会っていけ」と勧められるも、「御家の一大事」と涙ながらに振り切り、使いを続けたとする逸話がある。主家を失う悲しみの報告の上に、母を失った悲しみを背負って、一路赤穂に向かった、というのである。
同日の夜、第二報が赤穂に到着し、主君・浅野内匠頭は切腹だが、相手の吉良上野介にお咎めなしという幕府の裁定が赤穂に伝えられた。大石は藩士達を集めて自らの存念を語り、それに賛同する者から起請文を集めた。他の藩士達と同様に、幕府の処置に激しい憤りを覚えた重実も起請文を提出。大石の盟約に加わった。
4月19日の赤穂城開城後、4月下旬頃、重実は摂津・萱野郷の実家に戻った。重実は討ち入りを急ぐ「急進派」であったという。しかし、その前に彼にはやり残していた大事なことがあった。母の供養である。6月28日、母の百か日の法要をとりおこない、葬儀に参列できなかった悔いを埋め合わせた。
母の供養も済ませた重実は、大石に討ち入りの決行を促すが、大石はうなずかなかった。この時はまだ主君・浅野内匠頭長矩の弟である浅野大学長広の処分が決まっていなかったのである。9月下旬頃、大石は猛る重実をなだめ、説得するために、大高源吾を使者として派遣した。
そうした中、重実の父・重利は、重実に「大嶋家への再仕官」を勧めたのである。実際、重実は美濃の大嶋家に数日逗留したこともあった。大嶋家は戦国時代に土地を失った萱野家を返り咲かせた恩ある主君の家である。しかし、彼はすぐにこの話に飛びつくことなどできなかった。浪人を続けていた理由は、もちろん来る「吉良邸討ち入り」のためであった。
重実には「忠」を重んじる心があった。俳句をたしなむ風情を知る心もあった。そして、「親孝行」の精神も持ち合わせていた。それだけに、父に薦められた再仕官の話を無下に断ることはできなかった。「忠と孝」。この両方をわきまえていた彼は、その両方の板挟みとなってしまった。父・重利は、息子が「吉良邸討ち入り」に参加する意志がある、ということを確信していたらしい。討ち入りは、幕府の裁断に対する反抗、という一面が拭えない。親戚縁者に罪が及ぶのが当時の習わしであったし、場合によっては恩ある主家・大嶋家にも累が及ぶかもしれない。旗本である大嶋家の家臣の者から、討ち入り参加者が出たということで、罪を問われる可能性は十分考えられた。重実の心は乱れた。
元禄15年(1702)1月14日、月こそ違うが主君の命日と同日であったこの日、重実は自宅の長屋、西の部屋で自害して果てた。切腹前夜は父や兄嫁と談笑の一時を過ごして自室に戻り、暁近く主君の墓所を遙拝する姿で一尺九寸二分備中国水田国重作の脇差を腹に突き立て壮烈な死を遂げた。享年28。遺書は父と大石内蔵助宛てに2通残した。大石宛てのものには、同志達と共に約束を果たせない罪を侘び、そして討ち入りの成功を祈る旨を記したという。
重実の墓は、元文5年(1740)北河原長好(重実の姉の子)と萱野重好(重実の兄重道の孫)によって芝村の集落から千里川を隔てた千里丘陵の山中に建てられた(現在は箕面市立病院建設のために山中から千里川畔に移され、萱野三平旧邸の500mほど南に位置する萱野家の墓地内にある)。また、大島家を想い討ち入りに加わらなかった事を讃え、旗本・大島義也が豊中の新福寺に重実の墓を建てており、法名は妙法陽光洞廓居士。
赤穂浪士の墓所のある泉岳寺には重実のものとされる供養碑(遺骸の埋葬を伴わない供養墓塔)が、明和4年(1767)に立てられている(ただし俗名が書いてなかった為に、明治に入るまでは村上喜剣の墓だと思われていた)。特に萱野三平は「48番目の浪士」と呼ばれることもあり、赤穂市の大石神社では討ち入った四十七士に加えて、浅野内匠頭と萱野三平の木像を祀っている。
俳句歴
重実が赤穂に仕官していた貞享・元禄時代は、松尾芭蕉などの多くの俳人が出て、俳諧が盛んな時代であった。江戸俳壇の中心人物であった水間沾徳門下の大高忠雄(子葉)、神崎則休(竹平)、萱野重実(涓泉)の技量は当時の俳諧人にも広く認められ、その作品は『文蓬菜』『三上吟』等の俳書に収められている。
大高源吾は俳諧をたしなむ文化人でもあり、「子葉」という俳号も持っていた。重実もまた俳諧をたしなんでおり、「涓泉」の俳号を持っていた。この二人に神崎与五郎の「竹平」を加えて、「大高子葉」「萱野涓泉」「神崎竹平」で赤穂三羽烏と呼ばれていたらしい。
また萱野一族の中には、重実のほかにも兄重通(紅山)を始め、母の弟藤井家房とその子光貞(蘭風)、北河原好昌、小畑治左衛門(和泥)、北河原保親(休計)等の多くの優れた俳人が活躍し、蘭風編「椎柴集」「萱野草」、休計編「浪速置火燵」等の俳書に多くの句を残している。
重実は水間沾徳門下で句集「蟾蜍賦」を著すなど赤穂藩内でも名を知られた存在であった。
辞世の句は「晴れゆくや日頃心の花曇り」である。
claude sonnet 4.5 による自動生成です。
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バイオ
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- すきならば たくさんまきぬ はげいとう
-
鶏頭蒔く
けいとうまく
季節: 春(仲春) 分類: 人事(労働) -
虚子編 新歳時記 増訂版p.132