五百木飄亭 (いおき ひょうてい)
俳人の説明
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生涯
五百木飄亭(いおき ひょうてい)は、明治3年12月14日(1870年または1871年2月3日)、伊予国温泉郡小坂村新場所(現在の愛媛県松山市日の出町)に生まれた。本名は良三(りょうぞう)、俳号を飄亭という。
小学校入学後、漢籍を河東静渓(かわひがし せいけい)塾で学んだ。はじめ医師を志し、明治18年(1885年)に県立病院付設松山医学校に入学した。明治20年(1887年)に大阪に出て、今橋の町医者のもとに寄寓し、医務手伝いのかたわら勉学に励み、19歳で医術開業試験に合格し免許を得た。しかしその志は「病を癒さんより国を癒すの医」たらんとするものであった。
明治22年(1889年)、ドイツ語研究のために上京し、旧伊予藩主の久松家が育英事業として経営していた常盤会寄宿舎(東京学生寮)に入った。前年に同寄宿舎に入舎していた正岡子規と出会い、俳句や小説に没頭するようになった。子規からは「一種の天才」と評された。
明治23年(1890年)に徴兵に合格し、陸軍看護長に採用され、青山の近衛連隊に入営し、明治25年(1892年)まで軍隊生活を送った。明治27年(1894年)、日清戦争が始まると召集され、看護長として第五師団に従って出征し、各地を転戦した。その間、筆名「大骨坊」で「従軍日記」を新聞『日本』に約1年間にわたって連載し、好評を得た。俳句紀行の趣を持ちつつも生々しく戦場の様子を活写した「従軍日記」によって、大いに文名を馳せることとなった。
明治28年(1895年)、戦争から帰国後、新聞『日本』に入社し、陸羯南とともに活躍した。貴族院議長や学習院院長を務めた政治家の近衛篤麿(このえ あつまろ)の知遇を得たことにより、政治運動に力を注ぐようになった。明治29年(1896年)には近衛篤麿を擁して国民同盟会を結成し、中国の保全を主張した。篤麿のもとで雑誌『東洋』を発行し、対アジア対策を明らかにした。
明治34年(1901年)、新聞『日本』の編集長となり、対外硬派として論を展開した。明治36年(1903年)秋に編集長の職にあった新聞『日本』を辞した。これ以後、桜田倶楽部同人として対露同志会に力を尽くし、明治37年(1904年)の日露戦争開戦に影響を与えた。明治38年(1905年)9月5日には日比谷公園で国民大会を開き、日露講和条約の条件不服、条約破棄の世論を呼び起こした。
大正2年(1913年)には内田良平その他と対支連合会を起こし、大正3年(1914年)には国民義会を結成した。大正4年(1915年)には大隈内閣の密命を受けて満州に入るなど、日露講和条約反対運動や日韓併合推進運動、宮中某重大事件に関わる運動などに関与し、政治活動に奔走した。
昭和4年(1929年)9月、寒川鼠骨らに乞われて政教社の社長に就任し、雑誌『日本及日本人』を主宰した。『日本及日本人』は、かつて飄亭が編集長を務めた新聞『日本』の流れを汲む雑誌である。飄亭は文学に関する記事には飄亭の号を用い、論説記事は本名の五百木良三で掲載した。昭和11年(1936年)には「国体観念と俳句」と題したラジオ講演を行い、天皇機関説排撃運動から国体明徴運動に関与するなど、時局問題を俳人としての立場から論じた。
昭和12年(1937年)6月14日、68歳で永眠した。墓所は東京都の多磨霊園(または青山霊園)である。
俳句歴
飄亭は明治22年(1889年)に上京後、常盤会寄宿舎で正岡子規と出会い、俳句の指導を受けた。常盤会時代、正岡子規と飄亭は『富士のよせ書』をまとめている。『富士のよせ書』は古くからの文献を渉猟して富士山に関する記述を蒐集し、古来日本人がいかに富士山を見てきたのかをまとめた研究書である。その表紙には、馬骨生(子規)と鉄面生(飄亭)の名が編者として併記されており、この当時において飄亭は正岡子規と比肩する存在であった。
こうした文学上の交流を通じて飄亭に対する正岡子規の信頼は厚く、子規は明治27年(1894年)に『小日本』を創刊した際に、飄亭を記者として招いた。
子規が逝去した翌年の明治36年(1903年)秋に新聞『日本』を辞して以降、飄亭は政治活動に奔走し、この時期の文学的な活動についてはほとんど記録が残されていない。しかし明治44年(1911年)に興った子規庵保存会に名を連ねるなど、俳句を通じて築いた人脈との交流は維持していた。政教社の『日本及日本人』が正岡子規号を企画した際も、子規との思い出を綴った「追憶断片」を寄稿している。
その後、大正13年(1924年)末に同人から句作を求められたことを契機として、大正14年(1925年)の初春から句日記を認めるようになり、昭和7年(1932年)には柳原極堂が創刊した俳誌『鶏頭』に連載するようになった。これらの句作は飄亭の死後、政教社から『飄亭句日記』として刊行された。
その他の特記事項
飄亭の文学的活動は正岡子規の築いた日本派の系統に属する。日本派は、正岡子規や飄亭が記者として勤めた新聞『日本』を活躍の舞台としたことに由来する。
政教社社長時代の昭和6年(1931年)、政教社から村上霽月が『霽月句集』を出版した際、飄亭が序文を寄せている。この中で飄亭は「今や我が俳壇の盛んなる、真に千紫万紅の観がある。而かも党を組み派を樹てゝ互に覇を争ふ。当さに落花繚乱の一戦場である」と当時の俳壇を評している。
飄亭が主宰した『日本及日本人』は政論中心の雑誌であったが、和歌・俳句・漢詩を扱う文芸欄が常設されており、俳誌などの専門雑誌とは異なる立場から近代日本文学の一翼を担った。
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バイオ
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- くさのとの われにあふるる はつひかな
-
初日
はつひ
季節: 新年(新年) 分類: 天文(光) -
虚子編 新歳時記 増訂版p.6