土田耕平 (つちだ こうへい)
俳人の説明
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生涯と歌歴
土田耕平(つちだ こうへい)は、明治28年(1895年)6月10日、長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)に生まれた。18歳で両親を相次いで失った。
明治44年(1911年)、旧制諏訪中学(現在の長野県諏訪清陵高等学校)を中退し、同郡玉川村立玉川小学校の代用教員となった。この時、諏訪で教師をしていた島木赤彦の庇護と指導を受け、『アララギ』に投稿するとともに編集に携わった。赤彦が樹立した自然詠の骨法や、作歌信条としての倫理性(鍛練道)を忠実に受け継ぎ、一つの道を果てまで歩いた詩人である。
大正2年(1913年)に上京し、大正4年(1915年)に旧制東京中学校(現在の東京高等学校)を卒業した。転地療養のため、足かけ7年を伊豆大島で暮らした。大正10年(1921年)までは伊豆大島で病気療養を送り、20代で孤独な生活を送った時の作品は、歌集『青杉』(大正11年〈1922年〉刊行)となって、大正末期の歌壇に衝撃を与えた。
その後、上諏訪へ帰り、長野県内各地を頻繁に転居した。「漂泊の歌人」とも呼ばれ、生涯30数回も転居を繰り返した。大正13年(1924年)には信濃毎日新聞の歌壇撰者となった。のちには『アララギ』の選者となるなど、アララギ派を背負うひとりといわれるまでになった。
後半生の大半を不眠症の療養、短歌、童話の創作に費やした。繊細で純粋な自然詩人の系譜に立つ一人で、病弱の身をはげましながら作歌を宗教的境地にまで深化させた。
昭和15年(1940年)8月12日、下伊那郡鼎町で心臓病により死去した。44歳(または45歳)であった。戒名は智誉耕法幽玄居士。
その他の特記事項
耕平は童話の創作にも取り組み、『鹿の眼』(1924年)、『蓮の実』(1926年)、『原っぱ』(1928年)、『夕焼』(1932年)、『裾野』(1936年)など5冊の童話集を残している。
歌集としては、『青杉』(1922年)、『一塊』(1941年)があり、没後には『土田耕平遺稿』全3巻(1942~1943年)、『土田耕平著作集』全4巻(1985~1987年)が刊行された。
代表歌として、「おしなべて光る若葉となりにけり島山かげに居啼く鶯」「風しげく椿の藪を吹き揺する葉がくれの花葉おもての花」「久方の天のそぎへに真壁なす信濃の嶺ろは雪かづきたり」「山の根におのづからなる靄の凝りあはれと思ふ春は暮れにし」「うら葉みな冴え光りつつあか橿の幹たくましく貫き立てり」などが知られる。
その足跡には、神戸市須磨、大和郡山市、諏訪市、茅野市、伊豆大島、飯山市、飯田市など各地に歌碑が建てられている。
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バイオ
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- なみがしら いただきそめし はつひかな
-
初日
はつひ
季節: 新年(新年) 分類: 天文(光) -
虚子編 新歳時記 増訂版p.6