今村俊三 (いまむら しゅんぞう)
俳人の説明
管理人による説明
生涯
1928年(昭和3年)1月25日、大分県大分市に、邦夫とフミの三男として生まれる。教職にあった父親の転勤にともない、中津市、若松市(現・北九州市)、直方市などで幼少期・少年期を過ごし、終戦を福岡市で迎えた。1940年(昭和15年)、直方市南小学校を卒業。旧制福岡県立福岡中学校在学中の1943年(昭和18年)に右上葉浸潤を発症し、1946年(昭和21年)には左肺上部空洞、左腎臓結核を併発、以後死去まで結核と闘い続けることになった。同年、同中学校を卒業した。
1990年(平成2年)12月24日、急性呼吸不全のため死去した。
俳句歴
桂樟蹊子および石田波郷に師事した。結核を患っていた俊三が、同じく結核を病んだ石田波郷に師事したのは必然であったとも評されている。「霜林」「鶴」を経て、1979年(昭和54年)、俳誌「桃滴舎」を創刊し、主宰を務めた。1960年、「樟絶えず風生む母の日なりけり」の句で「鶴」誌上初めて巻頭を得た。1980年から1983年まで、西日本新聞のコラム「風車」を担当した。句集10冊のほか、「風車」のコラムをまとめた『桃滴コラム』、「桃滴舎」に連載したエッセイなどをまとめた『桃滴記』『桃滴日録』などの著書がある。第一句集は『鳩の頸』(竹頭社、1961年)。門下に、中村祐子、吉野裕之などがいる。
1957年11月には、吉岡禅寺洞、一丸章、住田郁、山本霞水、杉山参緑、吉永幹司などとともに福岡文芸家協会の発足に参加した。
1960年霜林賞、1963年および1968年風切賞、1969年鶴賞、1973年第3回福岡市文学賞、1974年福岡俳人協会賞を受賞した。
死去にともない、1991年1月、今村の追悼号をもって「桃滴舎」は第72号で終刊した。同号には、生前交友のあった辻邦生が追悼文を寄せている。残された会員は1年間の喪に服した後、1992年、中村祐子らを中心に「桃子集」を創刊した。
その他の特記事項
2025年、北海道大学俳句会の横山航路による評論「今村俊三『鳩の頸』の再評価―あるいは俳句的遺産の発掘について」が、全国学生俳句会合宿の評論勉強会で発表された。同評論では、今村俊三はいまや「忘れられた俳人」と位置づけられつつ、第一句集『鳩の頸』の作品から、俳句への「信頼」「覚悟」そして「天性の明るさ」がその特徴として評された。病による絶望の中にあっても「生への明るい肯定」が俊三俳句に見られる点は、闘病俳人の系譜においても注目すべきものとされている。
claude sonnet 5 による自動生成です。
参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。
バイオ
現在、1句の俳句が登録されています。
- ひおうぎや いしにだすした ややまきて
-
射干
ひおうぎ
季節: 夏(晩夏) 分類: 植物(キジカクシ目 ) -
平井照敏編 新歳時記 夏p.496