大谷繞石 (おおたに じょうせき)
俳人の説明
管理人による説明
生涯
大谷繞石(おおたに ぎょうせき/じょうせき)は、明治8年(1875年)3月22日、島根県松江市末次本町に生まれた。本名は正信。
島根県尋常中学校(後の島根県立松江北高等学校)在学中、西田千太郎らの英語教師に教えを受けた。明治23年(1890年)、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が英語教師として同校に赴任すると、学生の中で最もハーンの信任を得た。
明治25年(1892年)、京都の第三高等学校へ入学し、明治27年(1894年)、学制改革のため仙台の第二高等学校へ転校した。第三高等学校、第二高等学校では、同級生に俳人高浜虚子と河東碧梧桐がおり、この頃俳句への傾倒が始まった。
明治29年(1896年)、第二高等学校を卒業し、東京帝国大学英文学科に入学した。同年、島根県尋常中学時代に教えを受けたラフカディオ・ハーンが同大学に赴任し、再会を果たした。ハーンの研究資料収集係となり、報酬を受けて苦学生だった繞石は卒業することができた。
明治32年(1899年)、東京大学を卒業すると、東京の私立中学郁文館や哲学館(後の東洋大学)、真宗大学などに勤めた。英文学の大学講師となってからは、夏目漱石と交際するようになった。
明治41年(1908年)、金沢の第四高等学校に赴任し、十代の室生犀星に俳句を指導した。翌明治42年(1909年)には文部省の外国留学生としてロンドン大学で2年間英文学を学んだ。
大正13年(1922年)、広島高等学校の教授として赴任し、そこで『小泉八雲全集』の翻訳に打ち込み、第一書房から出版された。ラフカディオ・ハーン没後、小泉八雲全集の三分の一を翻訳した。
昭和8年(1933年)11月17日に死去した。59歳であった。
俳句歴
東京大学在学中に、俳人正岡子規に出会い、本格的に俳句の道に踏み出した。明治30年(1897年)に松江に帰省し、出雲俳壇の中心的な俳人であった奈倉梧月に勧めて全国で5番目の俳句会である「碧雲会」を発足させた。
「ホトトギス」「日本」などに俳句を発表した。俳句混迷の時代にも、終始、定型写生の基本を守った俳人であった。
著書に『案山子日記 滞英二年』(大正元年)、句集『繞石句集 落椿』、俳文集『北の国より』、『己がこと人のこと』などがある。また、エマーソン『標註 偉人論』『恵馬遜傑作集』、メーテルリンク『智慧と運命』『開いた処』、ゴルスワシイ『囚徒』など多数の英文学作品の翻訳を手がけた。
claude sonnet 4.5 による自動生成です。
参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。
バイオ
現在、3句の俳句が登録されています。
- うまうりて ひさしきうまや くりのはな
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栗の花
くりのはな
季節: 夏(仲夏) 分類: 植物(ブナ目) -
虚子編 新歳時記 増訂版p.295
- たつしかの かおがみえけり じょうやとう
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鹿
しか
季節: 秋(三秋) 分類: 動物(哺乳類) -
平井照敏編 新歳時記 秋p.192
- はつずりの えふろくこらに あたえけり
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初刷
はつずり
季節: 新年(新年) 分類: 人事(労働) -
虚子編 新歳時記 増訂版p.11