優れた俳句をデジタルデータとして保存し、後世に残すために俳句データベースを開発しています。

俳人の説明

管理人による説明

明治から昭和にかけて活躍した官僚・政治家・俳人。第8代・第14代東京市長として関東大震災の復興に尽力し、高浜虚子らと交わり「ホトトギス」同人として長い俳歴を持つ。

生涯

永田青嵐は、明治9年(1876)7月23日、兵庫県三原郡長田村(町村制後は倭文村、現在は南あわじ市倭文長田)に永田実太郎の次男として生まれた。本名は秀次郎。俳号・筆名は永田青嵐で、はじめ自宅に椋の木があったので「椋舎」という俳号であったが、同郷の淡路島出身の蕉門服部嵐雪の「嵐」にちなみ、その句「青嵐定まる時や稲の色」からとって「青嵐」と号した。弟に京都市土木局長、横浜市電気局長を務めた永田兵三郎がいる。

姫路中学校、第三高等学校(現在の京都大学の前身の一つ)を卒業し、明治32年(1899)第三高等学校法学部を卒業した。

内務省官僚を務めた後、旧制洲本中学校第3代校長(明治35年11月 - 明治37年9月、26歳で就任)を二年近くつとめた。退任後、大分県視学官、京都府警察部長(大正2年11月 - )、官選三重県知事(大正5年4月 - 同年10月)、内務省警保局長(大正5年10月 - 大正7年10月)、東京市助役(大正9年12月22日 - 大正12年5月29日)を歴任した。

大正12年(1923)5月29日、東京市長に就任し、関東大震災では市長として復興に尽力した。第8代東京市長(大正12年5月29日 - 大正13年9月8日)、第14代東京市長(昭和5年5月30日 - 昭和8年1月25日)を務めた。貴族院勅選議員(大正7年9月21日 - 昭和18年9月17日)、拓殖大学第4代学長(昭和4年5月 - 昭和18年9月)、選挙粛正中央連盟理事長(昭和11年)を歴任した。広田内閣の拓務大臣(昭和11年3月9日 - 昭和12年2月2日)、阿部内閣の鉄道大臣(昭和14年11月29日 - 昭和15年1月14日)を務めた。

昭和17年、陸軍の軍政顧問としてフィリピンに滞在したが、マラリアとデング熱に罹患して帰国した。昭和18年(1943)9月17日、満67歳で死去した。辞世は「震災忌我に古りゆく月日かな」。墓所は高野山奥の院。

俳句歴

三高時代から高浜虚子や河東碧梧桐と交わり、「ホトトギス」同人として長い俳歴を持つ。多くの句集や著書を残している。

その他の特記事項

大変な釣り好きとしても知られる。また、日本サッカー協会(当時は大日本蹴球協会)創立時の賛助者として名を連ねている。

後藤新平東京市長の下で(第一)助役を務めた際には、後藤から同じ助役の池田宏・前田多門と合わせ「畳」と称され厚く信頼された。

昭和7年(1932)のロサンゼルスオリンピックで女子平泳ぎ200mで銀メダルを獲得した前畑秀子に「なぜ金メダルを取れなかった」と言った。前畑は水泳を引退するつもりだったが、永田の言葉により現役続行を決意し、4年後のベルリンオリンピックで金メダルを取ることになった。当時、永田は東京市長として1940年(昭和15年)のオリンピックを東京に誘致しようと熱心だった。

claude sonnet 4.5 による自動生成です。

参考にさせていただいたWebサイト様
永田青嵐句碑 -- ぐるりん関西 永田秀次郎 -- Wikipedia 永田青嵐 -- ネットミュージアム兵庫文学館

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名秀次郎(ひでじろう)
生没1876 〜 1943

現在、3句の俳句が登録されています。