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俳人の説明

管理人による説明

江戸時代前期の俳諧師。松尾芭蕉の高弟であり、蕉門十哲の一人。芭蕉没後は宝井其角と江戸俳壇を二分し、雪門の祖となった。

生涯

服部嵐雪は1654年(承応3年)に生まれた。生年月日の詳細は不詳である。下級武士服部喜太夫高治の長男として生まれた。出生地については江戸湯島とする説と、淡路国三原郡小榎並村(現在の兵庫県南あわじ市榎列小榎列)とする説がある。潁原退蔵は、実家が淡路、嵐雪自身は江戸の生れであったため両説が伝えられたのではないかと考察している。

幼名は久馬之助または久米之助、通称は孫之丞、彦兵衛、新左衛門などである。別号は嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、寒蓼庵、玄峯堂、黄落庵などである。服部家は淡路出身の武家であった。長男である嵐雪も一時、常陸笠間藩主の井上正利に仕えたことがある。下級武士として一時は禄を食んだが、1686年(貞享3年)に仕官の道を諦めて俳諧師に転身した。若い頃は相当な不良青年で悪所(遊里や芝居町)通いは日常茶飯事であった。

1707年(宝永4年)10月13日に没した。享年54。法名は雪中庵不白玄峯居士である。駒込の常験寺に葬られ、後に雑司ヶ谷の本教寺に移された。追善集に百里斤「風の上」などがある。

俳句歴

延宝2年(1673年)または3年(1674年)ころ、松尾芭蕉に入門したと見られる。嵐雪21歳頃のことで、蕉門で最古参の一人となる。延宝6年(1678年)、不卜編「俳諧江戸広小路」に付句が2句入集したのが作品の初見である。延宝8年(1680年)には同門宝井其角の「田舎之句合」に序を草し、「桃青門弟独吟廿歌仙」に入集した。以後「虚栗」、「続虚栗」などに作品を採用された。

1687年(貞享4年)春に宗匠として立机した。1688年(貞享5年)には「若水」を刊行し、1690年(元禄3年)には「其帒」を刊行して俳名を高めた。1694年(元禄7年)、「別座鋪」に対抗した「露払」の編纂にからんで深川蕉門との対立を生じ、代えて「或時集」を刊行した。

芭蕉は嵐雪の才能を高く評価し、1692年(元禄5年)3月3日の桃の節句に「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称え、「両の手に桃と桜や草の餅」と詠んだ程であった。しかし、それより以前から師弟間には軋みが発生していたらしく、芭蕉の奥州行脚にも嵐雪は送別吟を贈っていないなど風波は激しかったようである。

1694年(元禄7年)10月22日、嵐雪は江戸にあってはじめて芭蕉の訃報を聞いた。その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開いたばかりでなく、桃隣と一緒に芭蕉が葬られた膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、「この下にかくねむるらん雪仏」であった。翌年には芭蕉の一周忌追善集「若菜集」を刊行した。

その他の特記事項

作風は柔和な温雅さを特徴とする。芭蕉は嵐雪の俳句を「からびたる事、嵐雪に及ばず」と評した。「からびたる」とは、枯れて物さびる、枯淡の趣に見えるという意味である。温雅でありながら古樸、穏やかで風雅でありながら古びて飾り気のない点が服部嵐雪の作風である。

其角と実力は拮抗し、芭蕉をして「両の手に桃と桜や草の餅」と詠んだ程であったが、芭蕉没後は江戸俳壇を其角と二分する趣があった。その門流は、雪門として特に中興期以後一派を形成した。

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参考にさせていただいたWebサイト様
【服部嵐雪の有名俳句 30選】蕉門十哲の一人!!俳句の特徴や人物像・代表作など徹底解説! -- haiku-textbook.com 服部嵐雪 -- Wikipedia 服部嵐雪 -- 山梨県立大学

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
幼名久馬之助 久米之助
別号嵐亭治助 雪中庵 不白軒 寒蓼斎 寒蓼庵 玄峯堂 黄落庵
通称孫之丞 彦兵衛
生没1654 〜 1707
出身地(旧地名)江戸湯島(?)

基準
向き
件数

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