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俳人の説明

管理人による説明

江戸時代前期の俳人。松尾芭蕉の門人として活躍し、芭蕉との交流は19年に及んだ。板倉侯に仕える武士であったが、主君を諫めて容れられず、44歳で致仕した。芭蕉は嵐蘭の死に際し、「悼嵐蘭の詞」を贈った。

生涯と俳句歴

松倉嵐蘭(まつくら らんらん)は、正保4年(1647年)に生まれた。名は松倉盛教、通称は松倉又五郎という。板倉侯に仕えて禄高三百石の武士であった。

山口素堂と常談無二の交わり深き間柄であったとされ、嵐蘭を芭蕉に紹介したのも素堂と思われる。松尾芭蕉の門人として活躍し、芭蕉との交流は19年に及んだ。

天和3年(1683年)、素堂が焼失した芭蕉庵を再建する際に書した「芭蕉庵再建勧化簿」の真蹟を、嵐蘭の姪孫である上野館林の松倉九皐が所持していた。

貞享5年(1688年)、芭蕉の瓢箪に『四山の銘』を記した。他にも子光の『素堂句集』の【芭蕉庵六物】によると、号二見文台・桧笠などに素堂の銘があった。

しかし、主君をいさめて容れられず、44歳で致仕した。その後ひっそりと江戸浅草に住んでいた。

元禄6年(1693年)、47歳の8月、鎌倉に月を見に行くといって出かけ、帰路に病を得てそのまま亡くなった。芭蕉は嵐蘭に寄せる誄(生前の功績を称える詞)「悼嵐蘭の詞」を作っている。その中で芭蕉は「嵐蘭は義を骨として実を膓とし、老荘を魂にかけて風雅を肺肝の間にあそばしむ」と清廉潔白で風雅な人柄を回顧している。

亡くなる年の正月、幼子(7歳)の手をとって芭蕉の庵を訪れ、この子に雅号をつけて欲しいと頼んだところ、芭蕉は王戎(竹林の七賢の一人)から一字とって「嵐戎」と名づけてやった。

墓所は山口素堂と同じ谷中感応寺。

嵐蘭の句は平明なものが多い。

claude sonnet 4.5 による自動生成です。

参考にさせていただいたWebサイト様
素堂と松尾芭蕉&松倉蘭々〔まつくららんらん〕 -- 山梨県 歴史文学館 山梨県 山口素堂資料室 嵐蘭(らんらん)とは? 意味や使い方 -- コトバンク 【蕪村菴俳諧帖38】我は朴の木 ◆蕉門に廉潔の士あり -- 蕪村菴

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名盛教
通称甚兵衛
生没1647 〜 1693

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