酒井抱一 (さかい ほういつ)
俳人の説明
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生涯
酒井抱一(さかいほういつ)は、1761年(宝暦11年)7月1日、江戸神田小川町の姫路藩別邸で生まれた。姫路藩世嗣・酒井忠仰の次男で、兄は姫路藩主の酒井忠以である。本名は忠因(ただなお)、幼名は善次、通称は栄八、字は暉真である。
1777年(安永6年)に17歳で元服した。大名家からの養子縁組の話はすべて断り、部屋住みの生活を送った。1797年(寛政9年)、37歳で西本願寺の文如に随って出家し、翌年から『老子』の一節に由来する「抱一」の号を終生用いた。出家の理由ははっきりしていない。
出家後は書、画、俳諧などに親しむ風流な日々を送った。1809年(文化6年)に下谷金杉大塚村へ移り、のちに「雨華庵」と名づけた庵を制作の拠点とした。1828年(文政11年)11月29日(西暦では1829年1月4日)、雨華庵で没した。墓所は築地本願寺にある。
俳句歴
元服と同じころ、大名の間で流行していた江戸座俳諧の馬場存義に入門した。俳号ははじめ白鳧、濤花と称し、のちに杜陵(杜綾)と改めた。江戸座の遠祖である宝井其角を慕い、その機知に富む句風を自作に生かした。1806年(文化3年)の其角百回忌には、其角の肖像を100幅描き、句を添えて贈っている。
1790年(寛政2年)ころから晩年まで、句日記『軽挙館句藻』を書き続けた。1812年(文化9年)には、その中から自選した句集『屠龍之技』を刊行した。「屠龍」の号は俳諧や狂歌、浮世絵の美人画にも用いている。
20代には狂歌の名手としても活躍し、狂歌名を尻焼猿人といった。狂歌師の大田南畝と交友があったほか、千住の建部巣兆を中心とする俳諧の仲間とも交流した。
その他の特記事項
絵師としては、狩野派や長崎派に学び、浮世絵師の歌川豊春に師事して肉筆美人画も描いた。寛政年間のなかごろから尾形光琳に私淑し、1815年(文化12年)に光琳の百回忌を営んで『光琳百図』を出版するなど、光琳の研究と顕彰に努めた。代表作の「夏秋草図屏風」は、光琳の「風神雷神図屏風」の裏に描かれたものである。鈴木其一らの門人を育て、その流れは「江戸琳派」と呼ばれる。
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参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。
バイオ
現在、4句の俳句が登録されています。
- ぬぎかえて はなみじらみに わかれけり
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花見虱
はなみじらみ
季節: 春(晩春) 分類: 動物(昆虫等) -
文藝春秋 最新俳句歳時記 春p.255
- ほしひとつ のこしておちる はなびかな
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花火
はなび
季節: 夏(晩夏) 分類: 人事(生活) -
新版 角川俳句大歳時記 夏p.322
- ひよどりの はんすいにくる よあけかな
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鵯
ひよどり
季節: 秋(晩秋) 分類: 動物(鳥類) -
新版 角川俳句大歳時記 秋p.452
- いもがしら とびやおとせし とりのいち
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酉の市
とりのいち
季節: 冬(初冬) 分類: 人事(行事) -
新版 角川俳句大歳時記 冬p.461