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俳人の説明

管理人による説明

江戸時代前期から中期の俳諧師。蕉門十哲の一人として「軽み」の俳風を代表し、西国に蕉風を広めた。

生涯

志太野坡(しだ やば)は、寛文2年1月3日(1662年2月21日)、越前福井で斎藤庄三郎の子として生まれた。姓は志田、志多とも書き、後に竹田氏を用いた。前号は野馬、別号として樗木社・樗子・紗方・紗帽・浅生・無名庵高津野々翁・照笛居士などと号した。

父に伴われて江戸に行き、越後屋の両替店の手代を勤めた。宝永元年(1704年)に大坂に移り、中国、九州地方に行脚して西国に多くの門弟を擁した。元禄11年(1698年)から元禄14年(1701年)まで商用で長崎に滞在し、やがて越後屋を退いた。元禄15年から翌年にかけて本格的な筑紫行脚を開始し、長崎・田代・久留米・日田・博多などを旅行して多くの弟子を獲得した。

享保10年(1726年)に浅生庵を新築する一方、蕉風を上方や九州に普及させるため、積極的に行脚を行った。元文5年(1740年)正月、痰咳が原因で死亡した。

俳句歴

其角の教えを受けて俳諧を始めたとされ、野坡の作品は貞享4年(1687年)刊『続虚栗』に初出である。その後、しばらく空白期間をおいて、元禄6年(1693年)に松尾芭蕉の指導を受けた。

元禄7年(1694年)6月、孤屋・利牛らと『すみだはら』(炭俵)を編集刊行した。この句集は芭蕉の晩年の俳風「軽み」の代表的撰集として知られる。芭蕉の遺書を代筆した俳人としても記録されている。

正徳4年(1714年)から正徳5年(1715年)には、森川許六と俳論書翰の応酬を行った(『許野消息』)。

芭蕉没後は行脚俳人として蕉風を西国に広め、芭蕉の17回忌や33回忌を営むなど、芭蕉の顕彰に尽力した。

編著に『すみだはら』『万句四之富士』『放生日』『六行会』、俳論に『許野消息』『袖日記』『俳諧二十一品』『樗庵草結』『俳諧秘伝語録』、発句集に『野坡吟草』などがある。

その他の特記事項

「軽き事野坡に及ばず」(『旅寝論』)と評されたように、平明闊達な句作りを特徴とし、蕉門十哲の中でも「軽み」の俳風では随一といわれた。軽妙で都会的な人事趣味の句も得意とした。一方で、野坡の「かるみ」が卑俗に流れ、軽薄に堕する傾向もないではなかったとされる。

代表的な門人に後継者でもあり保護者でもあった湖白亭浮雲、広島地方で活動した多賀庵風律がいる。湖白亭浮雲の妻は諸九尼と名乗り、『おくのほそ道』を追体験した「秋かぜの記」を著した。

代表句に「鶯や木末は鴉置きながら」「鶯や五文字の来る庵の客」などがある。

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参考にさせていただいたWebサイト様
志太野坡句碑 -- ぐるりん関西 志太野坡 -- Wikipedia 野坡(やば)筆「鶯や」句芭蕉翁像真跡 -- 泉屋博古館

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
別姓志多・志田・竹田
別号樗木社・樗子・紗方・紗帽・浅生・無名庵高津野々翁・照笛居士
生没1662 〜 1740

現在、16句の俳句が登録されています。

    • 霞 かすみ
      季節: 春(三春) 分類: 天文(水)
    • 虚子編 新歳時記 増訂版
      p.148