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俳人の説明

管理人による説明

江戸時代前期から中期に活躍した俳人。松尾芭蕉の血縁者とされ、芭蕉直門として俳諧を学び、師の没後は足跡を辿って追善の書を著した。

生涯

天野桃隣(あまの とうりん)は寛永16年(1639年)、伊賀国上野(現在の三重県伊賀市)に生まれた。名は勘兵衛、通称は藤太夫である。別号に初代太白堂、桃翁、呉竹軒などがある。

各務支考が唱えた説では松尾芭蕉の従兄弟や甥と伝えられ、芭蕉の血縁者とされる俳人である。15年ほど大坂で「利をいとひ遊民となつて」暮らしていたという。

後に芭蕉の門人となり、大坂に移って俳諧を学んで詠歌に携わった。杉山杉風とともにかるみの句を求めた。江戸に入り、元禄4年(1691年)、芭蕉に従って江戸に出て、40歳頃に芭蕉への恩恵により俳諧師としての独立が認められ、点者として暮らした。

享保4年(1720年)12月9日に没した。81歳とも70余りともいわれる。墓所は渋谷区瑞円寺である。

俳句歴

元禄7年(1694年)に芭蕉が死去した後、桃隣は師が著した「奥の細道」の足跡を巡った。元禄10年(1697年)の芭蕉三回忌の忌日に『陸奥鵆』全5巻を刊行した。さらに芭蕉十七回忌には『粟津原』を著した。両書とも芭蕉の忌日に刊行されている。

桃隣が残した唯一の句合評として『発句合』がある。

芭蕉とともに江の島詣をしようと藤沢に泊まった時の話が伝わっている。二人を出家と見た出産間近の女将が安産の符を求め、それに応じた桃隣が盃に「とく出でてまた乙みせよ花の兄」と書きつけた。するとすぐに安産の運びとなり、芭蕉は「道を得たる者なり」と評したという。

その他の特記事項

芭蕉亡き後の桃隣は、容貌が素朴となる等、不遇の晩年を過ごしたとされる。

桃隣は戯作者であった桃林堂蝶麿と同一人物説がある。桃の林、桃隣堂ともいい、元禄8年(1695年)頃より宝永2年(1705年)にわたり、江戸で「好色赤烏帽子」(1695年)、「好色美人角力」(1696年)など10余の浮世草子を発表したとされる。

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参考にさせていただいたWebサイト様
天野桃隣 -- Wikipedia 天野桃隣(あまのとうりん)とは? 意味や使い方 -- コトバンク 天野桃隣 -- インターネット俳句

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
生没〜 1719

現在、17句の俳句が登録されています。

    • 種瓢 たねふくべ
      季節: 秋(晩秋) 分類: 植物(ウリ目)
    • 文藝春秋 最新俳句歳時記 秋
      p.353