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俳人の説明

管理人による説明

昭和から平成にかけて活躍した俳人。能村登四郎、林翔に師事し、俳誌「港」を創刊主宰した。市井人の哀愁をたたえつつ俳諧味のあふれる作風で知られ、反骨精神と反戦意識を持ち続けた。

生涯

大牧広(おおまき ひろし)は、昭和6年(1931年)、東京府荏原区(現・品川区)に生まれた。弦巻学園高等学校を卒業した。

昭和40年(1965年)、「馬酔木」「鶴」に入会して俳句を始めた。昭和46年(1971年)、「沖」に入会し、能村登四郎、林翔に師事した。昭和49年(1974年)、第2回「沖」新人賞を鈴木節子とともに受賞し、昭和58年(1983年)には沖賞を受賞した。昭和57年(1982年)、第一句集『父寂び』を刊行した。能村登四郎はその序文で「寂びの姿を通してさまざまな喜怒哀楽を描くことを心に傾けている。正直すぎる人間の生き様をつきはなして描いている。私小説というより映画のワンカットに近い」と評している。

平成元年(1989年)、俳誌「港」を創刊し、主宰となった。平成がおわる4月まで「港」とともに生き、庶民の視点から一生活者として俳句を詠み続けた。門人に櫂未知子、仲寒蝉がいる。

平成21年(2009年)、第64回現代俳句協会賞を受賞した。その際、金子兜太は「大牧広のような俳人をどうしてもっと早く評価しなかったか」と述べ、協会側の対応が遅すぎたことを指摘した。平成27年(2015年)、第八句集『正眼』で第30回詩歌文学館賞を受賞し、平成28年(2016年)には第15回山本健吉賞を受賞した。

平成30年(2018年)夏頃、血液の血小板が減少する難病にかかり、同年12月には膵臓がんと診断された。平成31年(2019年)3月28日に第十句集『朝の森』で第53回蛇笏賞受賞の連絡を受けたが、同年4月20日、膵臓癌のため死去した。88歳であった。6月の授賞式には仲寒蝉が代理出席した。

俳句歴

大牧広は「沖」で能村登四郎、林翔に学び、俳人協会に所属して自註句集を早い時期に刊行するなど、精力的に活動した。市井人の哀愁をたたえつつ俳諧味のあふれる作風で知られ、反骨精神と反戦意識を強く持ち続けた俳人であった。

戦前戦後の多感な若き日を過ごした体験から、戦争や震災、原発といった時事俳句を数多く詠んだ。特に第六句集『冬の駅』以降、こうした作品が急増している。常に庶民の視点から社会性俳句を再興したことが高く評価され、金子兜太もその姿勢に共感を示した。

句集には『父寂び』『某日』『午後』『昭和一桁』『風の突堤』『冬の駅』『大森海岸』『正眼』『地平』『朝の森』などがある。その他、『大牧広集』(自註現代俳句シリーズ)、『大牧広句集』(現代俳句文庫)、『自解150句選』、『季題別大牧広句集』、『大牧広』(シリーズ自句自解)などを刊行した。著書に『能村登四郎の世界』『いのちうれしき ようこそ、高齢者のための俳句へ』『俳句・その地平 その地平の夕映は美しい』があり、編著に『秀句三五〇選 港』がある。没後、『大牧広全句集』が刊行された。

結社「港」の名には「人の世の港」という座標軸を据えて俳句を詠むという姿勢が込められていた。生前最後の句集『朝の森』では、戦後を生きた世代の批評精神やユーモアが評価され、俳壇最高の賞とされる蛇笏賞を受賞した。

claude sonnet 4.5 による自動生成です。

参考にさせていただいたWebサイト様
大牧広先生のお別れの会2019.5.22 -- ふらんす堂 大牧広 -- Wikipedia 第二百七夜 大牧 広の「春の海」の句 -- miho.opera-noel.net

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
生没1931 〜 2019
出身地東京都品川区
出身地(旧地名)東京府荏原区

現在、10句の俳句が登録されています。

    • 日々草 にちにちそう
      季節: 夏(晩夏) 分類: 植物(リンドウ目)
    • 角川ソフィア文庫 第4版増補 俳句歳時記 夏
      p.218
    • 蝗 いなご
      季節: 秋(初秋) 分類: 動物(昆虫等)
    • 新版 角川俳句大歳時記 秋
      p.518