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俳人の説明

管理人による説明

大正から平成にかけて活躍した俳人。水原秋櫻子に師事し、能村登四郎とともに「馬酔木」戦後の三羽ガラスと称された。「沖」創刊時から編集主幹として伝統俳句理論の構築に尽力した。

生涯

林翔は1914年1月24日、長野県長野市に生まれた。本名は林昭である。生後10ヶ月で母と死別し、5歳まで祖母に養われた。國學院大學に進学し、在学中に能村登四郎と知り合う。登四郎とともに短歌雑誌「装填」の同人となったが、同誌の廃刊後、ともに俳句に転じた。

1939年から1982年まで旧制私立市川中学(現・市川高等学校)に勤務した。登四郎も同じ学校に勤務しており、職場でも俳句の道でも生涯の同志となった。1945年に東京大空襲を受けて市川市八幡に転居し、1979年に同市大野町に転居した。

2009年11月9日、膵臓癌により死去。95歳であった。

俳句歴

1940年、水原秋櫻子の「馬酔木」に初入選する。この頃から「翔」を俳号に用いた。1950年「馬酔木」同人となる。能村登四郎、藤田湘子と並んで「馬酔木」戦後の三羽ガラスと呼ばれた。1962年、現代俳句協会を脱会し、俳人協会に加入する。

1970年、登四郎が「沖」を創刊すると、水原秋櫻子からの要請で編集主幹に就いた。1983年より副主宰となり、2001年に登四郎が息子の能村研三に主宰を譲ってからは、同誌の最高顧問となった。初期の「沖」は伝統派の中では積極的に発言する雑誌として注目を浴び、その中心を担ったのが林翔であった。

林翔は俳句の信条として、「俳句は、自分の心と対象物とがぶつかり合った瞬間に生まれる感動が、有季定型の短詩となったもの」という考えを持っていた。

句集に『和紙』『寸前』『石笛』『幻化』『春菩薩』『あるがまま』『光年』などがある。1971年『和紙』で第10回俳人協会賞、2005年『光年』で第20回詩歌文学館賞を受賞した。俳人協会顧問も務めた。

その他の特記事項

林翔は伝統俳句の理論的支柱として重要な役割を果たした。前衛俳句が隆盛を極めた時代にあって、早くから伝統論を展開していた。「沖」では「シリーズ伝統俳句研究」を企画し、伝統・前衛にこだわらず執筆者を選んで伝統俳句の考察を行わせた。

季語の扱いについても理論的で柔軟な姿勢を示し、「季語はあった方がよいが、絶対なものではない」として無季俳句を認める立場をとっていた。伝統派に属しながらも、立場に固執しない理論的な姿勢が林翔の特色であった。

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参考にさせていただいたWebサイト様
林翔 -- Wikipedia 第二百三十六夜 林 翔の「初日」の句 新連載・伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句 1.伝統について 筑紫磐井

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名昭
生没1914 〜 2009
出身地長野県長野市

現在、16句の俳句が登録されています。