優れた俳句をデジタルデータとして保存し、後世に残すために俳句データベースを開発しています。

俳人の説明

管理人による説明

大正から昭和前期にかけて活躍した俳人。坊城伯爵家に生まれ本田男爵家に嫁いだ華族で、高浜虚子に師事し「ホトトギス」同人として虚子の側近を務めた。

生涯

本田あふひ(ほんだ あおい)は、明治8年(1875年)12月17日、東京府神田駿河台に生まれた。本名は伊万子。坊城俊政の六女として生まれた生粋の華族である。坊城家は俊政死後の明治17年(1884年)に、俊政の跡を継いだ坊城俊章(俊政の養子)が伯爵を叙爵した。

明治28年(1895年)に華族女学校を卒業し、明治34年(1901年)に本田親済(男爵、のちに貴族院男爵議員)と結婚した。

夫の没後はもっぱら俳句と能楽に親しんだ。大正3年(1914年)には虚子たちとともに鎌倉能舞台の設立に関わり、以来、虚子とは能楽と俳句の交遊仲間となった。

昭和14年(1939年)4月2日、東京市渋谷区渋谷において65歳をもって没した。本田家の墓は東京の青山墓地にある。

その性格は剛毅なところがあり、謡などの趣味も男勝りであったと伝えられている。誰からも姐御のように頼りにされ、慕われていたという。

俳句歴

あふひは甥(義弟の子)の島村元とともに高浜虚子に師事した。「あふひ」の俳号は虚子の命名によるものである。大正11年(1922年)に「ホトトギス」同人に推された。

家庭俳句会、武蔵野探勝会、大崎会、渋谷会、句謡会などを指導し、虚子の側近として活動した。虚子はあふひのことを「女史」と呼ぶほど、大きな存在として認めていた。

あふひは一度も「ホトトギス」の巻頭作家になることはなかったが、虚子に「一度ホトトギスの巻頭になりたいものだ」と言った際、虚子から「屠蘇つげよ菊の御紋のうかむまで」という一句の持ち主であることが何よりも誇りではないかとの言葉を掛けられたという逸話がある。

没後の昭和16年(1941年)、『本田あふひ句集』が刊行された。同句集の序文は虚子が執筆している。

claude sonnet 4.5 による自動生成です。

参考にさせていただいたWebサイト様
本田あふひ -- Wikipedia 第五十四夜 本田あふひの「屠蘇」の句 -- 千夜千句 虚子への俳話90 -- 花鳥俳諧

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別女性
本名伊万子
生没1875 〜 1939

現在、21句の俳句が登録されています。