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俳人の説明

管理人による説明

明治から昭和期にかけて活躍した俳人。長崎市生まれ。小学校教師を務めながら、20歳の頃から俳句に親しみ、内藤鳴雪、高浜虚子、河東碧梧桐、石井露月らに学んだ。石橋忍月らと「あざみ会」を結成し、俳誌「太白」を創刊して主宰した。長崎の俳壇の指導者として活躍した。

生涯と俳句歴

田中田士英(たなか でんしえい)は、明治8年(1875年)3月9日、長崎市に生まれた。本名は英二。

小学校教師を務めながら、20歳の頃から俳句に親しんだ。内藤鳴雪、高浜虚子、河東碧梧桐、石井露月らに学んだ。

明治34年(1901年)、26歳の時に「文庫誌友の会」を結成し句会を開いた。その後、「半夜会」・「金谷会」・「伽俱津知会」を結成し、長崎の俳壇の指導者として活躍した。

明治43年(1910年)、35歳の時に河東碧梧桐が来崎し、句作を共にした。

大正4年(1915年)、41歳の時に句集「ナガサキ」(明治35年から大正3年までの長崎俳壇の作品を集録精選したもの)を発行した。

大正6年(1917年)、43歳の時に22年勤続の小島小学校から磨屋小学校に転任するが、小島小学校の保護者や同窓生の復帰運動によって、半年後に復帰した。

大正11年(1922年)、48歳の時に高浜虚子が来崎し、歓迎句会に参加したのを契機に、定型俳句に復帰した。石橋忍月らと「あざみ会」を結成した。

昭和4年(1929年)、55歳の時に俳誌「太白」を創刊し主宰した。昭和19年2月までの15年間、全国的にも特色のある俳句雑誌として発行が続けられた。

昭和18年(1943年)2月2日に没した。68歳であった。

昭和24年(1949年)、島原市安養寺に句碑が島原巣立句会によって建立された。後に、句碑は白土湖畔に移された。

昭和30年(1955年)、長崎市小島小学校校庭に小島同窓会の手によって句碑が建立された。

編著に「あざみ俳句集」「田士英俳句集」などがある。句集に「ナガサキ」(大正4年)、「あざみ会俳句選集」(昭和元年)、「田士英句集」(昭和10年)、「続 田士英句集」(昭和50年)がある。

子息に俳人の田中英吉がいる。

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参考にさせていただいたWebサイト様
『『ながさき句暦』を読む<17>【志田ろせん】【志田浩】【田中田士英】』 -- Ameba 田中田士英(タナカ デンシエイ)とは? 意味や使い方 -- コトバンク 田中 田士英 -- 長崎県の文学者

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名英二
生没1875 〜 1943

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