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俳人の説明

管理人による説明

江戸中期の俳人。蕉風復古を唱え、京都東山に芭蕉堂を設けて芭蕉顕彰に生涯を捧げた。

生涯

高桑闌更は享保11年(1726年)、加賀国金沢の商家鶴瓶屋に生まれた。名は忠保、または正保。通称は長次郎。初号は闌犀(らんさい)、別号に狐狸窟(こりくつ)、狐狸仙、半化(半化房)がある。庵号は李桃亭・二夜庵・南無庵・芭蕉堂である。

闌更は家業を捨てて俳諧に専念し、伊勢派の和田希因(わだきいん)に俳諧を学んだ。希因没後、30代半ばに蕉風復古を唱えた。当時流行していた美濃派、伊勢派の俳諧にあきたらず、蕉風に復帰しようとしたが、それらを全面的に否定するような立場はとらず、美濃派、伊勢派などの祖である支考や乙由には敬意を持ち続けた。

宝暦13年(1763年)、金沢の野蛟神社で芭蕉70回忌を修して、芭蕉資料を集めた『花の故事』を刊行した。明和期に入ると、浅野川近くに二夜庵を結び、明和6年(1769年)には芭蕉の俳風の変遷を『有の儘』にまとめ、明和8年(1771年)には旧著の補訂を含む蕉門資料を『落葉考』にまとめた。

天明期には京都に出て医業に就いたが、まもなく東山双林寺に芭蕉堂を設けて、森川許六が刻んだ芭蕉像を安置し、南無庵と称して芭蕉顕彰に着手した。天明3年(1783年)10月、双林寺境内に芭蕉堂、南無庵を設けるべく地所を得て、天明4年(1784年)5月には南無庵が完成、天明6年(1786年)3月12日には最初の花供養会を開催した。

寛政10年(1798年)5月3日、73歳で没した。京都高台寺に葬られた。

俳句歴

高桑闌更は蕉風復古を提唱し、芭蕉資料の収集と研究に尽力した。明和6年(1769年)に芭蕉の俳風の変遷をまとめた『有の儘』、明和8年(1771年)に蕉門資料をまとめた『落葉考』を刊行した。

京都に移住後、天明6年(1786年)以後は毎年3月12日に芭蕉会を修し、その日の俳諧興行を収載した『花供養』を刊行した。この花供養会は、明和元年(1764年)からの義仲寺の時雨会とともに各地方の芭蕉顕彰の動きの先例となった。花供養会は毎年のように執り行われ、明治3年頃まで盛会であった。

句集に『半化房発句集』(天明7年〈1787年〉刊)がある。寛政5年(1793年)には暁台に次いで、花の下宗匠の号を二条家から与えられた。闌更は寛政2年(1790年)に二条家俳諧宗匠の允可を受け、寛政5年(1793年)には花の本の允許を蒙った。

闌更の芭蕉顕彰活動は京都俳壇における重要な業績の一つであり、全国各地へ展開していくことから、近世後期の芭蕉顕彰の先発であった。『花供養』は天明6年から寛政11年(1799年)までの13回を闌更が主催し、その後も芭蕉堂歴世によって継承された。

その他の特記事項

闌更が設けた芭蕉堂では、森川許六が刻んだとされる芭蕉像が安置された。この芭蕉像は、芭蕉の愛した桜樹を許六が刻んで大津の智月尼に与え、その後越中、加賀へと巡り、闌更に伝来したという。天明7年(1787年)9月刊『拾遺都名所図会』に芭蕉堂が登載され、出版による宣伝効果を期待した。

花供養会は、芭蕉追善の俳諧興行として春の月命日である3月12日に行われ、桜の咲く好時節であったことが追善俳諧に参集する人々の高揚感を満たすのに最適であった。闌更主催の『花供養』には、在世の天明6年から寛政11年までのうち13回の入集者が3189名に及んだ。

闌更の門人には、成田蒼虬(二世芭蕉堂主)、梅室(桜井治郎作)、何丸、可都里、馬来、眉山(中山眉山)などがいる。闌更没後も芭蕉堂と花供養会は歴代の堂主に継承され、近世後期の京都俳壇における芭蕉顕彰の中心的役割を果たした。

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参考にさせていただいたWebサイト様
高桑闌更 -- Wikipedia 高桑蘭更 -- コトバンク 近世後期京都の芭蕉顕彰俳諧資料 -- 立命館大学アート・リサーチセンター

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名正保
別名忠保
別号蘭皐(らんこう) 李桃亭 二夜庵 南無庵 半化房 芭蕉堂
生没1727 〜 1799

基準
向き
件数

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    • 元日 がんじつ
      季節: 新年(新年) 分類: 時候(暦)
    • 角川ソフィア文庫 第4版増補 俳句歳時記 新年
      p.14