優れた俳句をデジタルデータとして保存し、後世に残すために俳句データベースを開発しています。

俳人の説明

管理人による説明

江戸時代前期から中期の俳諧師。蕉門十哲の一人として芭蕉に随侍し、没後は美濃派を確立して蕉風を全国に普及させた。

生涯

各務支考(かがみ しこう)は寛文5年(1665年)、美濃国山県郡北野村(現在の岐阜市)に生まれた。本姓は村瀬で、幼少で父を失い、禅刹大智寺に入ったが、19歳頃に還俗して次姉の嫁ぎ先である各務宗三郎方に入籍した。元禄3年(1690年)3月、近江で松尾芭蕉に入門し、翌年冬には熱田から師について江戸へ下向した。元禄7年(1694年)には伊賀上野から大坂へ向かう芭蕉の旅に同行し、師の臨終を看取るとともに遺書を代筆した。

芭蕉没後は、伊賀・伊勢・近江・江戸などを巡り、諸国行脚と追善興行を繰り返した。この間、芭蕉の遺吟・遺文を集めて『笈日記』を編纂している。正徳元年(1711年)には自己の「終焉記」を著して佯死し、自らの追善集『阿誰話』を上梓するという奇行を行った。以後、蓮二房・渡辺ノ狂などの変名を用いて活動を続けた。享保4年(1719年)には加賀千代女を訪問し、「あたまからふしぎの名人」と喧伝した。享保9年(1724年)以降は郷里の美濃山県に定住し、蘆元坊里紅に道統を譲った。享保16年(1731年)2月7日、獅子庵にて没した。享年67。大智寺に自ら建てた墓に葬られ、墓碑銘は「梅花佛」と刻まれた。

俳句歴

支考は元禄3年(1690年)に芭蕉に入門した晩年の門人であり、師に随侍した。元禄5年(1692年)には陸奥行脚を行い、処女作となる俳論書『葛の松原』を発表した。俳諧七部集の一つである『続猿蓑』(1698年)の編集にも参与している。

芭蕉没後、支考は元禄11年頃より本格的な俳諧活動に入り、筑紫、近畿、加越へと俳諧行脚を重ねて自派の確立に力を傾注した。九州、中国、四国、北陸など各地を精力的に旅し、句集や俳論を盛んに出版するとともに、多くの弟子を育成していった。平俗を主張する美濃派を樹立し、榎本其角の江戸派とともに有力な俳諧の一派を形成した。全国各地の民衆の間に蕉風を普及させることに努め、美濃派は獅子門とも称された。この道統は蘆元坊に伝えられ、現在第四十一世道統に引き継がれて活動が続けられている。晩年の住まいだった獅子庵は岐阜県の史跡に指定されている。

その他の特記事項

支考は当時の俳人には珍しく体系的な俳論を展開した理論家であった。主要な俳論書として『葛の松原』(1692年)、『続五論』(1699年)、『俳諧十論』(1719年)などがある。また、漢詩に対して仮名詩を創始し、俳文においても多く対句を用い四六駢儷体を模して独自の風格を持った。『本朝文鑑』(1718年)、『和漢文操』(1727年)などの俳文集を編纂している。著作は非常に多く、句集、俳論書、紀行文など50以上に及ぶ。

一方で、支考は森川許六とともに論客として知られたが、利己主義的な性格であったとして同時代から悪評もあった。勢力を拡大するために芭蕉を利用し、時には偽書を作り、同門の人々と論争を繰り返した。自己の死後の世評を聞くために死んだと見せかけるなど、芳しからぬ点も指摘されている。別号として東華坊、西華坊、獅子庵、野盤子など多数を使用した。

claude sonnet 4.5 による自動生成です。

参考にさせていただいたWebサイト様
各務支考 -- Wikipedia 各務支考(カガミシコウ)とは? 意味や使い方 -- コトバンク 支考 | 兵庫ゆかりの作家 | ネットミュージアム兵庫文学館 -- 兵庫県立美術館

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
別号東華房 西華房 獅子庵
生没1665 〜 1731
出身地岐阜県
出身地(旧地名)美濃国

基準
向き
件数

現在、31句の俳句が登録されています。

    • 秋色 しゅうしょく
      季節: 秋(三秋) 分類: 時候(感覚)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 秋
      p.35
    • 楓 かえで
      季節: 秋(晩秋) 分類: 植物(ムクロジ目)
    • 文藝春秋 最新俳句歳時記 秋
      p.290