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俳人の説明

管理人による説明

明治から昭和期の俳人・医師。昭和9年「ホトトギス」同人となり、全国のハンセン病療養所を巡り療養者の俳句を指導した。私財をもって俳誌「鴫野」を創刊し患者の作品発表の場を守った。

生涯と俳句歴

本田一杉は、明治27年(1894年)生まれ。医師である。金沢医専在学中から、ハンセン病患者に接し、大正の末頃にはすでに療養所内に句作の集団のあることを知っていた。

昭和9年(1934年)、「ホトトギス」同人となった。同年の「ホトトギス」四月号の「診療閑話」で一杉がハンセン病に触れたことが患者の目に留まり、その懇請によって長島愛生園を訪問し、以後、療養所の俳句の指導にあたった。

昭和12年(1937年)、「ホトトギス」が投句箋のついた五十銭の「ホトトギス」の購入を投句の条件として「自由投句制」を廃止し、事実上、患者の投句を制限したことに対し、私財をもって俳誌「鴫野」を創刊し、患者の作品発表の場を公開した。戦時中も、患者の発表の場のなくなることを危惧して雑誌の統廃合に応じず、そのために俳誌仲間との軋轢が生じたと伝えられる。

昭和22年(1947年)、栗生を訪れた際、浅香甲陽の句帳に「肉眼はものを見る。心眼は仏を見る。俳句は心眼あるところに生ず」と書いて励ました。

昭和24年(1949年)、没した。一杉が没した後、7月2日長島愛生園の四十余名の俳人たちは「追悼句会」を催した。一杉がハンセン病の俳人たちとの交わりを開始してから十五年がたっていた。一杉没後、その運動を引きついたのは大野林火であった。

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参考にさせていただいたWebサイト様
本田一杉 -- あめんぼ通信(農家の夕飯) 対談「花鳥諷詠と前衛」三協会統合の可能性(下)-- 現代俳句協会 子規居士と女性・本田一杉 -- 楽天ブログ

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

生没1894 〜 1949

現在、17句の俳句が登録されています。

    • 花換祭 はなかえまつり
      季節: 春(晩春) 分類: 宗教(神道)
    • 文藝春秋 最新俳句歳時記 春
      p.353