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俳人の説明

管理人による説明

明治から昭和期の俳人。16歳で正岡子規の根岸草蘆句会に参加し、生涯子規を師と仰いだ。1936年「火星」を創刊・主宰し、関西俳壇で活躍した。

生涯

岡本圭岳は、1884(明治17)年4月1日、大阪府大阪市東区今橋(現在の中央区)に生まれた。本名は鹿太郎である。岡本家は鴻池家の一番番頭格の古い家柄であった。愛珠幼稚園、愛日小学校、東区高等小学校へと進んだ。1896(明治29)年、12歳で鴻池家経営の第十三銀行に勤務した。

14歳で俳句を覚え始め、愛日小学校の一歳年上の芦田秋窓に誘われ初めて俳句を知った。この年、青木月斗を主とする若い俳人のグループ「三日月会」が結成され、圭岳も参加した。

1899年、新聞『日本』や「ホトトギス」で正岡子規選を受け、度々入選するようになった。1900(明治33)年、16歳の時、圭岳は自ら東京転勤を申し出て、銀行の東京支店へ転勤となった。同年10月、根岸の子規庵での句会に参加し、念願の子規に会うことができた。この句会は子規の最後の定例会であった。翌1902(明治35)年の第五回蕪村忌にも参加し、子規にもう一度会う機会があった。同年9月に子規が亡くなると、子規が居ない東京に未練が無いとばかりに大阪へ戻った。

その後、松瀬清々の主宰する「宝船」という結社に拠ったが、1909(明治42)年秋、25歳の時に俳句を中断した。句会の後の遊興で親の金を使い過ぎ、家を取るか俳句を取るかの二択を迫られたためであった。

1921(大正10)年、37歳の時、前年に青木月斗が立ち上げた「同人」という結社に参加し、俳句活動を再開した。復帰してたった一年で「同人」雑詠欄の選者に推され、その後14年間編集に携わり、経営の方にも力を入れた。

俳句歴

1934(昭和9)年9月、正岡子規の三十三回忌に当たり、明石の須磨寺に子規の句碑を建立した。これは圭岳が若い頃から強く抱いていた願いであった。

圭岳は14年の間、月斗の右腕となり「同人」を支えてきたが、次第に若い俳人たちの新しい傾向の句を認めるようになり、「同人」の主流派から非難されるようになった。1936(昭和11)年2月、多くの若い人たちの情熱と力を後ろ盾に、53歳で「同人」を辞して「火星」を創刊・主宰した。

1938(昭和13)年、日中戦争に俳人記者として従軍し、上海などの大陸の部隊を訪問した。1940(昭和15)年、従軍句集『大江』を刊行した。

1946(昭和21)年、戦時に休刊していた「火星」を復刊した。その後の句集に『太白星』(1953年)がある。

圭岳は生涯和服に白足袋、草履を通した。これは一般の人とは違う生活をする自分を充分に自覚し、信念をもって生き続けている姿のアピールとして、和服を通したものであった。

1970(昭和45)年12月15日、86歳で死去した。死後『定本岡本圭岳句集』(1977年)が刊行された。

その他の特記事項

戦前の「火星」には一時、下村槐太、堀葦男、赤尾兜子、林田紀音夫など後に関西俳壇で活躍する俳人たちが集まった。

圭岳は中庸の精神を保ち、伝統も新興もなく、良しと信じる中庸の道を行くのみであると唱えた。しかし世の中からは「火星」は新興俳句結社の印象であった。

圭岳の死後は妻の佐知子、ついで娘の山尾玉藻が主宰を継いでいる。

圭岳は生涯、子規に二度会ったことの喜びと、自分が最後の子規の弟子であるという誇りを持ち続け、毎年「火星」では子規忌俳句大会が持たれていた。

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参考にさせていただいたWebサイト様
岡本圭岳 -- Wikipedia 火星 -- 俳人協会 岡本圭岳と関西俳壇 -- 火星俳句会

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名鹿太郎
生没1884 〜 1970

現在、16句の俳句が登録されています。

    • 小満 しょうまん
      季節: 夏(初夏) 分類: 時候(暦)
    • 文藝春秋 最新俳句歳時記 夏
      p.200
    • 溽暑 じょくしょ
      季節: 夏(晩夏) 分類: 時候(感覚)
    • 文藝春秋 最新俳句歳時記 夏
      p.334