黒柳召波 (くろやなぎ しょうは)
俳人の説明
管理人による説明
生涯
黒柳召波は享保12年(1727年)、京都の商人の子として生まれた。字は廷遠、通称は清兵衛である。別号に春泥、玄亭、春泥舎などがある。家は富商であった。
召波は後に江戸に入り、服部南郭から漢詩を学んだ。その後、京都に帰り、龍草廬に漢詩文を学び、龍草廬の門人で幽蘭社の一員となった。漢詩人として柳宏の名で世に知られ、漢詩を発表していた。この頃、俳諧は余技として親しんでいたようである。
宝暦の頃に俳諧に転じて与謝蕪村の門人となった。召波が江戸で服部南郭に漢詩を学んでいた際、同門の蕪村と知り合い、俳諧に興味を持ったとされる。1766年(明和3年)に蕪村が三菓社(三葉社)を結成したときそれに参加して、以後俳諧に熱中するようになり、めきめき頭角をあらわした。
蕪村が讃岐から京都に帰ってきた後、召波が死去するまで数回、自身が亭主を務める家屋で句会が開催された。召波は蕪村に心酔し、離俗の生活を喜んだ。
明和8年12月7日(1772年1月11日)に没した。享年46(満45歳)であった。
俳句歴
召波は当初漢詩人として活動していたが、蕪村との出会いをきっかけに俳諧に転じた。1766年(明和3年)に三菓社の句会に参加して以降、俳諧に熱中し、蕪村門下の重要な俳人として頭角を現した。
召波の作風は、向井去来等を尊敬し、各務支考や中川乙由(麦林)らの風俗を滑稽に描いた生活を基盤としている。去来、嵐雪、其角、素堂らの作風を慕い、支考、麦林(乙由)らの俗調を排して蕪村に心酔した。離俗の精神を重んじ、蕉門の正統的な俳風を追求した。
召波の句は『春泥句集』に収められている。これは召波が詠んだ句を、彼の死後、子の黒柳維駒が編纂し刊行したものである。序文は師である蕪村が著している。
召波の代表句に「たんぽゝもけふ白頭に暮の春」がある。この句は、黄色い花を咲かせていたタンポポが綿毛状になって種を飛ばしている状態を白髪頭にたとえたもので、「たんぽゝも」とあるからには作者自身も同じ白髪頭であることを示唆している。暮の春に、惜春の情と老人の感懐を込めた句である。
その他の特記事項
召波は京都の富商の出身であり、経済的に恵まれた環境で俳諧に専念できた。漢詩人として柳宏の名で活動していた経歴を持ち、漢詩文の素養が俳諧にも影響を与えたと考えられる。
蕪村門下において、召波は重要な位置を占めた。蕪村が讃岐から京都に帰った後、召波の家で句会が開催されるなど、蕪村との関係は深かった。召波の家は句会の会場として提供され、蕪村一門の活動の中心地の一つとなった。
召波は45歳の若さで没したが、その作品は『春泥句集』として後世に伝えられた。蕪村が序文を著したことからも、師である蕪村が召波を高く評価していたことがうかがえる。召波は蕉門の正統を尊び、俗調を排して離俗の精神を追求した俳人として、蕪村門下の中で重要な役割を果たした。
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