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俳人の説明

管理人による説明

明治から昭和期にかけて活躍した俳人。正岡子規、河東碧梧桐に師事し、新傾向運動の中心作家の一人として活動した。非常な多作家として知られ、生涯を島根で過ごした。

生涯と俳句歴

広江八重櫻(ひろえ やえざくら)は、明治12年(1879年)3月11日、島根県能義郡赤江村大字中津(現・安来市東中津町)に生まれた。本名は直治。蚕豆庵(さんとうあん)と号した。当時の大地主である広江忠四郎の長男で、夫人コノとの間に二男二女がある。晩年に村内に郵便局を開設したが、すべて次男まかせであったという。

俳句は中学二年頃から始め、大谷繞石の指導する碧雲会に参加し、正岡子規選の『日本』俳壇や『ホトトギス』に投句した。非常な多作家で、子規は「八重桜を以って第一の多作者となす。一季優に千句を下らざるもの数年」と評した。既に子規選の頃の「ホトトギス」に多く登場し、多作の作家として知られた。

のちに河東碧梧桐に師事し、新傾向俳句を詠んだ。子規没後は碧梧桐の新傾向運動に賛同し中心作家の一人となった。『続春夏秋冬』では、碧梧桐を抜いてもっとも多く入集している。「海紅」の選者も務めたが、自由律俳句には賛同せず離反した。その後『層雲』『海紅』の選者もつとめたが、自由律俳句には賛同せず離反した。

中塚一碧楼の義弟である中塚響也と「渚」を創刊後は定型に戻った。その後中塚響也らとともに活動を再開する昭和10年(1935年)までながく句作を絶ち、生涯句集をまとめることもなく終わった。

昭和20年(1945年)10月8日に死去した。

作品集としては、『続春夏秋冬』と『日本俳句鈔』第一集から、まとめて『俳諧雑誌』に載せられた『八重桜句鈔』と『現代日本文学全集九一・現代俳句集』(筑摩版)に収められているものがあるが、句集はない。筑摩書房の現代日本文学全集の『広江八重桜集』は、八重桜の弟子で、後に『石楠』の最高幹部となった福島小蕾がまとめたものである。

俳風は、新傾向運動の初期の、写生を徹底しようとした時期の特色を持続し、景の中の一点、一ヶ所を鋭くみつめるゆき方をとっており、意味も他の新傾向俳人よりは明らかなものが多い。

同じ『ホトトギス』の出でも碧梧桐門であったこと、自由律系の俳誌の選者を務めたことがあるが本人は自由律の作家ではなかったこと、ずっと島根にいたことなどから、この俳人の業績をまとめる人があまり出ず、顕彰は今に至るまで遅れている。

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参考にさせていただいたWebサイト様
広江八重桜 -- Wikipedia 広江八重桜(ヒロエ ヤエザクラ)とは? 意味や使い方 -- コトバンク 夕立や野に二筋の水柱 広江八重桜 -- セクト・ポクリット

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名広江直治
別名八重桜
別号蚕頭庵(さんとうあん)
生没1879 〜 1945

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