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俳人の説明

管理人による説明

昭和期の臨済宗の禅僧・俳人。飯田蛇笏に師事し、俳禅一如の句風を確立した。アメリカでの禅の布教にも尽力した。

生涯

中川宋淵(なかがわ そうえん)は1907年(明治40年)3月19日、山口県玖珂郡岩国町(現・岩国市)に生まれた。本名は中川基(なかがわ もとし)、道号は玄珠、法諱は宋淵、号は密多窟である。1923年(大正12年)に旧制第一高等学校に入学し、1927年(昭和2年)には東京帝国大学文学部に進学した。大学時代は俳聖・松尾芭蕉を研究し、学生時代から俳句に親しんでいた。

1931年(昭和6年)3月19日、山梨県の向嶽寺で勝部敬学につき得度した。得度後は大菩薩山中にて木食修行に励んだ。1930年(昭和5年)には東京の白山道場で山本玄峰に師事し、1935年(昭和10年)に静岡県三島市の龍沢寺へ転錫した。1951年(昭和26年)4月、山本玄峰の跡を継いで龍沢寺第10世住職並びに僧堂師家となり、その後多くの弟子を育成した。

1949年(昭和24年)から13回にわたってアメリカ合衆国に渡り、禅道場を開くなど布教に努めた。これは釈宗演の弟子である千崎如幻との文通がきっかけであった。また、イスラエルに禅堂を作り、中川球童を派遣するなど、海外での禅の普及に大きく貢献した。1984年(昭和59年)3月11日に遷化した。

交友関係では、高見順とは旧制第一高等学校時代の同級生で、その後も交流があり、高見が臨終間際となった際には高見のもとを訪ねて読経をして死を見届けた。ほかに『大菩薩峠』の著者中里介山とも交友があった。

俳句歴

向嶽寺で修行する傍ら、1931年(昭和6年)に俳人・飯田蛇笏に入門した。24歳の頃、富士山に暫く籠もったのち寺へ帰る前に飯田蛇笏の門を叩いたという。その折に「秋風や火口に落つる砂の音」の句を出して見せたところ、蛇笏はこの作品を見て直ちに入門を許可した。ただし蛇笏は宋淵の目の前で一文字の添削をし、中七「火口に落つる」の助詞「に」を「を」に変えて「秋風や火口を落つる砂の音」とした。宋淵はその違いを直ちに理解したという。その後、蛇笏の主宰する『雲母』の同人となった。

しかし師となった山本玄峰老師は宋淵の句作活動を必ずしも諸手を挙げて賛成していたわけではなく、「お前さんは俳人になってはいかん」という玄峰老師に対し「私は俳人ではありませぬ」と応える宋淵とのやりとりも伝わっている。玄峰老師は宋淵の将来を案じていたのかも知れない。

宋淵の句風は「俳禅一如」と称された。これは俳句と禅が渾然一体となった宇宙世界を表現するものであった。「不立文字」(文字にして伝えることができない)と言われる禅において文字の芸術である俳句を詠むということは、句そのものが宋淵の生涯を体現していたからではないかと考えられる。句詩文集『詩龕』のほか、句集『命篇』『遍界録古雲抄』などを刊行した。また、墨跡も数多く残した。

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参考にさせていただいたWebサイト様
中川宋淵 -- Wikipedia 第三百五十八夜 中川宋淵の「秋風」の句 -- Miho Haiku Note (第263号)宗淵老師と俳句(平成22年4月1日号)-- 三島市

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名基(もとし)
別号密多窟
生没1907 〜 1984

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