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俳人の説明

管理人による説明

昭和期に活躍した俳人。山口誓子の妻として「ホトトギス」「馬酔木」を経て「天狼」同人となり、夫を献身的に支えながら句作を続けた。

生涯

山口波津女(やまぐち はつじょ)は、明治39年(1906年)10月25日、大阪市北区中之島に生まれた。本名は梅子。旧姓は浅井。浅井義晭(よしてる)・まさ夫妻の長女として生まれた。

父の義晭は大阪商船に勤務しており、明治42年(1909年)に韓国仁川の支店長として赴任したのに伴い、波津女も仁川に移住した。次いで大正3年(1914年)には父の香港支店長赴任に伴い、香港に移住した。

帰国後、大正8年(1919年)に大阪市東区宰相山町に居住し、大阪府立清水谷高等女学校に入学した。大正12年(1923年)に清水谷高女を卒業後、大阪府立大手前高等女学校の高等科に入学した。

大正13年(1924年)、肺尖カタルと診察され、兵庫県西宮市の高級住宅街「香櫨園」にて転地療養した。大正15年(1926年)には自宅に高浜虚子や村上鬼城が来泊し、この頃より俳号に「波津女」を使い始めた。

昭和2年(1927年)、山口誓子に俳句の指導を受け始め、翌昭和3年(1928年)10月2日に誓子と結婚した。波津女の実家の敷地に新居を構え、本格的に句作を始めた。

昭和12年(1937年)7月、社団法人日本放送協会関西支部のラジオ放送「婦人俳句の鑑賞」に出演した。同年、父の義晭(俳号・浅井啼魚(ていぎょ))が死去した。昭和20年(1945年)、太平洋戦争末期の大阪大空襲で自宅を焼失し、蔵書や家財など一切を失った。

昭和28年(1953年)、西宮市苦楽園へ転居した。昭和40年(1965年)には誓子と日本中を旅行した。

昭和60年(1985年)6月17日、心不全のため死去した。享年78。

俳句歴

波津女は俳人であった父・浅井啼魚(ていぎょ)の影響で少女時代より句作を行った。大正11年(1922年)、父が「水無月句会」という家族句会を始めたことが、本格的な俳句との出会いとなった。

昭和2年(1927年)に山口誓子の弟子となり、翌年の結婚後、本格的に句作を始めた。俳句雑誌「ホトトギス」「馬酔木」の同人を経て、昭和23年(1948年)に夫・誓子の主宰する「天狼」創刊と同時に同人となった。

昭和26年(1951年)6月、第一句集『良人』(りょうじん)を発刊した。昭和49年(1974年)8月、第二句集『天楽』を発刊した。没後の昭和62年(1987年)10月、遺句集として第三句集『紫玉』が刊行された。

誓子の療養生活では波津女が献身的に看病し、誓子は波津女を「妻にして母、主婦にして看護婦」と評するほど、二人は深い愛情で結ばれていた。

その他の特記事項

波津女は遺産を神戸大学に寄贈している。誓子と波津女の自宅は阪神・淡路大震災で倒壊したため、跡地に句碑と記念碑が建立された。神戸大学文理農学部キャンパス(神戸市灘区)に自宅が再現され、山口誓子記念館として不定期に公開されている。

忌日の6月17日は「波津女忌」として知られる。

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参考にさせていただいたWebサイト様
山口波津女 -- Wikipedia 山口波津女について -- 神戸大学山口誓子記念館 6月17日 波津女忌 -- 雑学ネタ帳

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別女性
本名梅子
別姓浅井
生没1906 〜 1985
出身地大阪府大阪市北区中之島

現在、22句の俳句が登録されています。