優れた俳句をデジタルデータとして保存し、後世に残すために俳句データベースを開発しています。

俳人の説明

管理人による説明

江戸時代中期の俳諧師。与謝蕪村の高弟として夜半亭三世を継承し、中興期俳諧の絶頂期をもたらした。

生涯

高井几董(たかい きとう)は、寛保元年(1741年)、京都の俳諧師・高井几圭の次男として生まれた。幼名は小八郎。前号は雷夫。別号に晋明、高子舎、春夜楼、春秋庵、塩山亭、三世夜半亭などがある。

父・几圭は早野巴人に入門し、京俳壇で名を馳せた人物であった。幼少期から俳諧に親しみ、父の記念集『はなしあいて』に初入集した。宝暦10年(1760年)、20歳のときに師であった父が亡くなり、父の几の字を受け継いで「几董」と号した。

明和7年(1770年)、30歳のときに父と同門であった与謝蕪村に入門した。蕪村は師である早野巴人の夜半亭を継承するに際し、巴人門の先輩である几圭の遺子である几董に、いずれ夜半亭号を譲渡するつもりであった。以後、蕪村を補佐して中興期俳諧の絶頂期現出に貢献した。

安永7年(1779年)には蕪村と二人で大坂・摂津・播磨・瀬戸内方面に吟行の旅に出た。天明4年(1784年)の蕪村没後は追悼集『から楢葉』『蕪村句集』を編んだ。

天明5年(1785年)、早野巴人の『一夜松』の続編を編もうとした蕪村の遺志を継ぐために江戸に下向し、大島蓼太の推挙により三世夜半亭を継承した。天明6年(1786年)に『続一夜松』前後集を刊行した。

天明8年(1788年)、京都の塩山亭に居を構えていたが、京都の天明大火に見舞われて焼け出され、以降は門人の間を転々とした。

寛政元年(1789年)10月23日、伊丹の士川宅で酒を飲んで急逝した。享年49。

俳句歴

幼少期から父・几圭の導きにより俳諧に指を染めた。父の死後、明和7年(1770年)に与謝蕪村に入門し、以後蕪村を補佐して中興期俳諧の絶頂期現出に貢献した。

明和9年(1772年)、初撰集『其雪影』を刊行した。安永2年(1773年)には俳諧集『あけ烏』を、安永5年(1776年)には『続明烏』を編集した。これらの書は、几董の実力を十分に示すものである。特に久村暁台らと刊行した『あけ烏』『続明烏』は、中興俳壇の絶頂期をもたらした。

天明4年(1784年)、蕪村没後に追悼集『から楢葉』を手向け、『蕪村句集』を編んだ。天明6年(1786年)、大島蓼太の推挙により夜半亭三世を継承し、『続一夜松』を刊行した。

蕪村入門当初から終生記録し続けた『几董句稿』は、夜半亭一門の動静を伝えて貴重である。著書は多く、ほかに『日発句集』『初懐紙』『井華集』などがある。

その他の特記事項

代表句に「水に落ちし椿の氷る余寒かな」「絵草紙に鎮おく店や春の風」「むらさきに夜は明けかかる春の海」「明いそぐ夜の美しき竹の月」「秋あつき日を追うて咲く木槿かな」「淋しさの年々高し花芒」「かなしさに魚喰ふ秋の夕べかな」「やはらかに人わけゆくや勝角力」「年かくすやりてが豆を奪ひけり」「穢多村の裏を逃げ行く清水かな」などがある。

蕪村は几董に夜半亭三世を継がせる意向であったとされ、几董は蕪村の高弟として師の遺志を継いで活躍した。

高浜虚子が編纂した『几董全集』(1900年)をはじめ、伊藤松宇編『新編蕪村几董附合集』(1908年)、浅見美智子編『几董発句全集』(1997年)など、多くの全集や句集が刊行されている。

claude sonnet 4.5 による自動生成です。

参考にさせていただいたWebサイト様
高井几董 -- Wikipedia 几董 -- daily-sumus2 高井几董 -- インターネット俳句

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
別号晋明 高子舎 春夜楼 塩山亭
生没1741 〜 1789

基準
向き
件数

現在、70句の俳句が登録されています。