優れた俳句をデジタルデータとして保存し、後世に残すために俳句データベースを開発しています。

俳人の説明

管理人による説明

江戸時代中期の俳人・尾張藩士。多芸多才な武士として藩の要職を歴任した後、隠居して風流人として暮らし、俳文集『鶉衣』を残した。

生涯

横井也有(よこいやゆう)は、元禄15年(1702年)、尾張藩で御用人や大番頭を務めた横井時衡の長男として生まれた。幼名は辰之丞、通称は孫右衛門、諱は時般(ときつら)である。俳号は野又・野有を経て也有と称し、別号に永言斎・知雨亭などがある。横井氏は北条時行の流れを組む家柄と称している。

享保12年(1727年)、26歳で家督を継ぎ、寛保元年(1741年)には大番頭兼用人となった。さらに寛延元年(1748年)には寺社奉行を兼ねるなど、藩の要職を歴任した。多芸多趣味な人物として知られ、俳諧・俳文のみならず、武芸・平家琵琶・謡曲・書画・詩歌・狂歌など、あらゆる芸能に通じていた。また、儒学も深く修めている。

宝暦4年(1754年)、53歳のとき病を理由に隠居し、前津(現在の名古屋市中区上前津一丁目)の草庵・知雨亭に移り住んだ。当時この地は「不二見が原」と呼ばれる草原が広がり、天気の良い日には富士山も見えたと伝えられる。隠居後は俳句や狂歌を作りながら、町人や百姓とも親しく交わり、吉見幸和・松平君山・堀田六林といった文人たちとの交流も続けた。天明3年(1783年)、82歳で没した。

俳句歴

也有の俳諧は、各務支考(かがみしこう)の一門である武藤巴雀(むとうはじゃく)、太田巴静(おおたはじょう)らに師事したことに始まる。その影響から、句には美濃派の特色が大きく表れている。俳文で最も早い作品は27歳のときに著した「訪以之辞」であり、発句の初出は33歳のときに刊行された巴静編『木の本』である。

也有の句は川柳と似た特徴を持つとされ、前句付の影響が指摘されている。同じ尾張藩士で絵師として知られた内藤東甫とは俳画で度々合作しており、東甫による也有の肖像画も残されている。

也有の没後、弟子たちが俳文を編集したものが、大田南畝によって『鶉衣(うずらごろも)』として刊行された。南畝は安永の初め頃、長楽寺で也有の「借物の弁」を目にして感銘を受け、以後尾張出身者に会うたびに也有のことを尋ねていた。ようやくその著作を目にする機会が訪れたときには、すでに也有は亡くなっていたが、南畝は作品が埋もれることを惜しみ、自ら刊行に踏み切ったのである。

その他の特記事項

也有は健康になるための十訓を提唱したとされ、「少肉多菜」「少食多噛」「少憤多笑」などの教えが伝えられている。また、『鶉衣』に記された也有の句「化物の正体見たり枯尾花」は、後に「幽霊の正体見たり枯尾花」と変化して広く知られるようになった。

現在、名古屋市の東山動植物園内には也有の遺徳をしのぶ日本庭園「也有園」が設けられ、也有の文学にゆかりの植物とともに50の句が添えられている。また、名古屋市中区橘の長栄寺境内には、也有が晩年をともに過ごした石原文樵(ぶんしょう)が建立した「也有蘿塚」があり、也有の髪と爪が埋められている。

claude sonnet 4.5 による自動生成です。

参考にさせていただいたWebサイト様
横井也有 -- Wikipedia Shall We Walk?横井也有ゆかりの地を訪ねて -- 愛知県健康づくり振興事業団 横井也有(よこいやゆう)(1702-1783) -- 熊谷市立熊谷図書館 熊谷文学館

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名時般(ときつら)
幼名辰之丞
別号永言斎 知雨亭
通称孫右衛門
生没1702 〜 1783
出身地愛知県
出身地(旧地名)尾張藩

現在、20句の俳句が登録されています。

    • 春 はる
      季節: 春(三春) 分類: 時候(暦)
    • 虚子編 新歳時記 増訂版
      p.73
    • 水葵 みずあおい
      季節: 夏(晩夏) 分類: 植物(ツユクサ目)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 夏
      p.253