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俳人の説明

管理人による説明

大正から昭和にかけて活躍した俳人・実業家。飯田蛇笏に師事し、「雲母」一筋に自然と生活を深い詩情をもって詠んだ。

生涯

石原舟月(いしはら しゅうげつ)は1892(明治25)年3月7日、現在の山梨県笛吹市御坂町に生まれた。本名は起之郎である。慶應義塾大学部理財科を卒業した。

1921(大正10)年に「雲母」に入会し、飯田蛇笏に師事した。1932(昭和7)年、東京電柱広告社を創業し、後に東広会長となった。実業に携わりながら俳句を続け、「雲母」一筋の俳人として活動した。

戦後は一時期、1946年から1951年まで東京の自宅に「雲母」発行所を移し、復刊・継続に貢献した。甲府空襲で印刷所が被災したことにより休刊していた「雲母」を復刊させる上で重要な役割を果たした。

1976(昭和51)年に勲五等瑞宝章を受章し、1980年には俳人協会名誉会員となった。1984(昭和59)年10月13日に逝去した。俳人の石原八束と石原次郎は息子である。

俳句歴

舟月は大正10年から俳句を作り始め、約60年にわたって作句を続けた。そのうち40年は蛇笏に、後の20年は飯田龍太に指導を受けた。蛇笏には俳句を通じて人間の生きざまや人生の歩む道をも教えられるところが多く、舟月にとって俳句はかりそめの遊芸や余技というようなものではなくなっていた。

早くから西島麦南や小川鴻翔といった先達にも恵まれ、西島の言葉のように「生涯山廬門弟子」として、ひとすじの道を貫いた。蛇笏の主観写生に学びながら、実業に携わりつつ自然と生活を深い詩情をもって詠んだ。

1981(昭和56)年、句集『雨情』により第15回蛇笏賞を受賞した。この句集は昭和48年から55年までの作品447句をまとめたもので、詩情の若々しさが見事であると評価された。句風は剛直から次第に柔和と自在へと変化し、人柄を反映する詩情のやさしさと澄みが特色となった。巻頭の「ゆく春の大瀬に迫る月の山」から掉尾の「大藁屋時計鳴り出す日の盛り」まで、重厚清新にして深沈、孤独の清心のみずみずしさが漂っている。

句集『雨情』には集名通り雨の作品が多く、「朝寝して春は雨情のしづかなる」などの句に見られるように、しみじみしたやさしい抒情が漂っている。年齢とともに言葉がやわらかくなり、心が対象の隅々にまで行きわたり、俳諧自由の境に遊んだ。

他の句集に『山鵲』『仮泊』などがある。

その他の特記事項

舟月は謹厳正直で真情の人という印象を持たれ、対象を真正面に据えて、少しも緩みがなく、また言葉のあや、技巧のけれんを捨てて真勁深重の作品を残した。事物にこまやかに心を通わせて自然・人事の微に触れた円熟の作風であり、理屈では割り切れない妙味と、巧拙の技術を越えた誠意が句集全体を貫いていた。

蛇笏賞受賞の際には、「蛇笏先生のような文学性のある立派な俳句は作れなかったが、師の教えを忘れまいと日日努力することは、私にとって大変幸福なことであった」と述べ、「生涯山廬門弟子」として師への感謝を表した。

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参考にさせていただいたWebサイト様
石原舟月 -- Wikipedia 雲母(雑誌) -- Wikipedia 『雨情』(東京竹頭社刊)|第15回(1981年) -- 公益財団法人 角川文化振興財団

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
本名起之郎
生没1892 〜 1984

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