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俳人の説明

管理人による説明

江戸時代の俳人。松尾芭蕉の門人で、39歳で妻子を捨てて出家し芭蕉に師事した。芭蕉没後は芭蕉の発句を和賛に仕立てた「風羅念仏」を唱えて全国を追善行脚した。

生涯と俳句歴

広瀬惟然は、慶安元年(1648年)、美濃国関(現・岐阜県関市)に酒造業の三男として生まれた。通称は源之丞である。別号は、素牛、鳥落人、風羅堂、風羅坊、湖南人、梅花仏などがある。14歳の時、名古屋の商家、藤本屋に養子に入ったが、貞享3年(1686年)39歳の時、妻子を捨てて関に戻り出家した。

貞享5年(1688年)6月、松尾芭蕉が『笈の小文』の旅を終え、岐阜に逗留した折に芭蕉と出会い門下となった。翌年にも『奥の細道』の旅を終えた芭蕉を大垣に訪ね、その後関西に滞在した芭蕉に近侍した。大坂で芭蕉を看病したこともある。元禄7年(1694年)、素牛の号で『藤の実』を刊行した。

芭蕉没後は「奥の細道」の逆順路の旅などをした。元禄14年(1701年)3月には伊丹を来訪し、鬼貫とも親交を持った。元禄15年(1702年)ころから芭蕉の発句を和賛に仕立てた「風羅念仏」を唱えて芭蕉を追善行脚した。同年には播磨に行脚し、このとき入門した姫路の千山は師の口語調俳諧の普及に努め、口語調俳諧が播磨、山陽地方に広まるきっかけとなった。元禄15年(1702年)には『二葉集』を刊行した。

宝永2年(1705年)以降は関に帰郷し、弁慶庵に隠棲し、質素な生活を送った。宝永8年(1711年)2月9日、美濃国関で逝去した。

その他の特記事項

惟然の俳句には擬音まじりや、口語調の俳句があることが特徴である。惟然風といわれる軽妙な口語調俳諧を得意とした。

惟然が所持していた芭蕉像や芭蕉遺品と称する什物(簑や笠)を千山が受け継ぎ、記念の塚を建て、千山の子寒瓜が風羅堂を建立した。この俳系を風羅堂一派と称し、姫路俳諧の中心となって、昭和にいたるまで続いた。

関市には、弁慶庵-惟然記念館があり、惟然の偉業を偲ぶための作品や俳諧関係の文献が展示されている。

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参考にさせていただいたWebサイト様
広瀬惟然(ひろせ・いぜん)-- seijihysのブログ 広瀬惟然 -- Wikipedia 惟然 -- ネットミュージアム兵庫文学館

参考にさせていただいたWebサイトの制作者様、誠にありがとうございます。貴サイトの貴重な情報により本データベースの充実を図ることができました。この場をお借りして心より感謝申し上げます。

バイオ

性別男性
別名惟然(いねん)
別号素牛 鳥落人 風羅堂 湖南  梅花仏
生没〜 1711
出身地岐阜県関市
出身地(旧地名)美濃国関

現在、19句の俳句が登録されています。

    • 烏瓜 からすうり
      季節: 秋(晩秋) 分類: 植物(ウリ目)
    • 虚子編 新歳時記 増訂版
      p.601
    • 鳥頭 とりかぶと
      季節: 秋(仲秋) 分類: 植物(キンポウゲ目)
    • 虚子編 新歳時記 増訂版
      p.561
    • 柿 かき
      季節: 秋(晩秋) 分類: 植物(ツツジ目)
    • 角川ソフィア文庫 第5版増補 俳句歳時記 秋
      p.156